スペイン語文法ノート 英語のように「be 動詞+過去分詞」で「受身」の出来上がり―というのもいいのですが、言語が違えば考え方も異なります。やはり、情熱の言語というわけか、そもそも「受動態」といった消極的(?)な言い回しを好まないスペイン語。その受動態のカタチとは?




スペイン語の受動態の考え方


Última actualización: 17 de abril 2016


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スペイン語は能動的言語

英語の受動態はご存知、「be 動詞+過去分詞」で作成することができますが、スペイン語の受動態 (voz pasiva) も同じように
    ser/estar 動詞 + 過去分詞
で表現することができます。受身形では、下の例文にも見られるように、主語となる名詞句 (El Guernica; Las noticias) に応じて、動詞と過去分詞 (fue pintado; estaban divulgadas) が性数の変化をしますので注意が必要です。ser と estar の使い分けについては、ser と estar の使い分けを参照ください。

El Guernica fue pintado por Picasso.
(ゲルニカはピカソによって描かれた。)
Las noticias estaban divulgadas por la tele.
(それらのニュースはテレビによって報道されていた。)

しかしながら、スペイン語の受身の話はここで終わりではありません。

というのも、スペイン語では、英語やフランス語、イタリア語などの他のラテン語系言語と比較しても、こういった受身形(迂言的受身:pasiva perifrástica)はあまり使われません。話の焦点が受動主に当たっているときなどの特殊な場合を除いて、できるだけ使用を避けようとする傾向があります。最近では、IT関連や技術分野において、英語やフランス語などから翻訳されたスペイン語の表現にこの受身形が多く含まれており、問題視されている傾向もあるようです。

スペイン語とは、本質的に「能動的」な視点を持った言語だと言えるでしょう。そもそも「動詞」とは、何らかの「動作」や「アクション」を表現するためのものであり、動詞を使った文章には、動作を行う「行動主」(行為者)と、動作を施される側の「受動主」(被行為者)の存在があります。能動態とは「行動主」を主語にした文章であり、受動態とは、反対に「受動主」を主語にした表現です。「主語」にするということは、視点・焦点を置く―つまり、その観点からみた表現をするということに他なりません。

スペイン語では、「誰が(何をした)」という「行動主」の視点からみる物の見方というものが、基本的な表現心理として存在しています。さらに言うならば、物事を客観的な現実世界の出来事として捉えた場合、「活動的で動きのあるもの」、「エネルギーを持っているもの」から観るのが最も自然なものの見方だというわけです。

たとえば、「人間が本を書く」という現象があるとします。言うまでもなく、「人間」は生きている動きのある存在であり、「書く」というのは1つの行動ですからエネルギーを伴うものであると考えます。それに対して、「本」は動きのない対象です。能動態であろうと、受動態であろうと、「人間」は「書く」という動作を行うエネルギーを持った存在(行動主)であり、「本」は「書く」という行為を施される対象(受動主)であるという関係は不変です。



スペイン語では、「誰が」という行動主がはっきりとわかっている場合、「本は人間によって書かれる」とか「ドアは家主によって開けられた」といった受身的な表現は、基本的には使われません。行動主がわかっているのに、わざわざ受動的な言い方をする必要はないという考え方をするわけです。もちろん、全く使わないとか、用法として間違っているということではありませんが、あくまでも、不必要に使用するのは、スペイン語らしくないということなのです。

もちろん、受身的な表現がまったく使われないとか、受身を使った文章すべてがスペイン語らしくないということではありません。当然のことながら、能動的な視点だけでは豊かな言語表現が成り立ちません。行動主から視点をそらしたり、受動主に視点を移した表現をする場合は、能動態以外の態が使われます。





もうひとつの受身表現

スペイン語は能動的な視点を持った言語であるということ、ser/estar を用いた複合的な受身形は好まないということを述べましたが、「行動主」がわからない場合や、わかっていても言及したくない、ぼかしておきたいという場合によく使われるのが再帰的受身 (pasiva refleja) という受身表現で、再帰代名詞の三人称 se を使って構築します。

また、迂言的受身と同じように、主語となる名詞句 (muchas cosas; el edicifio) と動詞 (hablaron; estableció) は、単数複数の一致をさせる必要があります。

Se hablaron muchas cosas en la reunión.
(会合では多くのことが話し合われた。)
Se estableció el edicifio en 1970.
(その建物は1970年に建てられた。)

ところが、この受身形は、用法的に、あらゆる受身表現に対応するという万能なものではありません。つまり、再帰代名詞の三人称を用いることからも、主語となる受動主が三人称であるときにしか使用できません。しかも、主語となる受動主は人間ではなく「物」に限られます。

では、三人称以外の再帰代名詞を用いて、三人称以外の受動主を主語にした受身形は作れないのか、あるいは、人間を主語にしたらどうなるのか、といった疑問が出てきます。確かに、そのような文章を作成することは可能です。しかし、それはもはや「受身」ではなく、再帰表現などの別の表現になってしまいます。

また、se の用法のところでも紹介していますが、再帰代名詞の se の用例は「受身」だけではありません。「受身」的な用例は、あくまでもその一部に過ぎず、再帰・相互表現をはじめ、無人称表現、独特のニュアンスを表したりなど、さまざまな用例があります。

というようなことから、この再帰的受身という形は、どうも「受身形」としては純粋で完全なものとは言えないようです。あくまでも、受身的な内容を表現するための「受身の代用形」とでもしておいたほうが適切かもしれません。そういう意味では、「ser/estar +過去分詞」を使った複合的な形が純粋で万能な「受身形」と言えるわけです。しかし、上でも述べたように、どっこいこの表現は好まれないということになり、一体スペイン人の「受身」に対する考え方はどうなのかということになりますが、純粋な受身なんてどうでもいい、わざわざ消極的な表現をする必要はない―といった心理が感じられるような気がします。

よって、スペイン語らしい表現にするには、受動態にこだわらず能動態を用いるなどの工夫が必要です。能動態以外のニュアンスを持つ内容をスペイン語でどう表現するかは、スペイン語の受身表現法で説明しています。





歴史的考察

上の説明で、スペイン語にはそもそも純粋な「受身形」というものがあるのかということが問題になってきましたが、言い換えれば、「あるような、ないような」というのがスペイン語の受身形なのかもしれません。

スペイン語の親であるラテン語の受身形を見てみると、なるほどとうなづけるものがあります。スペイン語の「ser/estar (助動詞)+動詞の過去分詞」のような受身形はすでにラテン語にもあったのですが、同じラテン語でも、そういった複合形が登場するのは「俗ラテン語」 (latín vulgar) と呼ばれるラテン語の方言においてです。

ところが、もともとラテン語には、複合形ではなく、amo (私は愛する)→ amor (私は愛される)、amas (君は愛する)→ amaris/re (君は愛される) などのように、動詞の語尾を活用させて表現する「受身形」がありました。また、スペイン語の se に該当する再帰代名詞を使った用法もあり、その用例のなかには、意味的に「受身」に近い意味を持つものもあったようです。どうやら、こういったラテン語の受身的な表現の特徴のなかに、スペイン語の受身表現のルーツがありそうです。

つまり、こういった語尾変化に基づくラテン語の「受身形」や再帰代名詞を使った表現には、「受身」以外の用例が多く含まれていたというわけで、いわゆる中間態(voz media:能動態と受動態の中間)と呼ばれる用例がそれに該当します。また、形式所相動詞(verbo deponente)と呼ばれる「受身」の形を取りながら意味は能動態である動詞も存在しており、「受身に見えて中身は受身でない」ような性質を持っていたと言えます。こういったあいまいなラテン語の受身の性質を受け継いだのが、スペイン語の受身表現だと理解することができるでしょう。

次に、再帰代名詞 se を使った再帰的受身ですが、前述のように、ラテン語にも再帰代名詞の se というものがあり、「自分を洗う」といった本来の再帰的用法の他に、中間態としての用例を持っていました。どちらかというと、再帰的用法よりは後者の用例のほうが多かったとも言われており、そういった「中間態」の用例から、スペイン語の再帰的受身表現へと発展してきたようです。

さらに、スペイン語は能動的視点を持っているため、行動主を主語とした文章表現が基本です。よって、行動主を言及したくない、行動主がわからないという場合にのみ、「受身」が使われていたのですが、それは受動主が三人称の場合のみに限られていました。第三者のことについては、「誰が行為を行ったか」といった経緯がわからない(問題にしない)ということは十分起こりうるので、これも当然といえば当然のことかもしれません。

というわけで、littera scribitur 「手紙が書かれる」などと語尾変化に基づく受身形を使った表現には、どうも違和感があるということになってきます。そこで、主語となる「手紙」といった物を強引に「行動主化」し、再帰代名詞三人称の se を入れて littera se scribit 「手紙が自分自身を書く」というふうに表現するようになったという説もあります。つまり、形だけを見ると、「受身」どころか立派な「能動態」というわけです。

こうしてみると、この文型であれば必ず受動態といった明快な図式が成り立たないのがラテン語の受身形であり、スペイン語特有の se を使った表現だと言えます。

また、受身表現の文型も受身以外の用例を持っているため、「能動態 vs 受動態」ではなく、「能動態 vs 非能動態」という対比を用いて「態」というものを捉えたほうがわかりやすいかもしれません。「能動態 vs 非能動態」とは、言い換えれば、「視点が行動主にあるか」(能動態)、「行動主からそれているか」(非能動態)ということに他なりません。行動主を主語にする場合は能動態であり、行動主を主語にしない(ぼかす、受動主を主語にする)場合が非能動態というわけです。


ですから、スペイン語では、「これが受身だ!」といった明確な区分けがあるというよりも、「能動態であるか、能動態でないか」という対比があり、「能動態でない」表現のなかに一部として含まれるのが「受身」表現であると理解するほうがより適切ではないかと思われます。