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オトクニこと「弟の国」また、明治時代(1868~1912)には、現在の京都の一部と長岡市、向日市を合わせた地域のことを「乙訓」と呼んでいました。 ところで、この名前にはどんな意味があるのでしょうか? いくつか説がありますが、最も有力なのは「弟国」が語源だという説です。「オトウトクニ」が「オトゥクニ」…と短縮されていったのでしょう。 さて、弟の国があれば兄の国があるのは当然ですね。つまり、先にあった大きな国を兄にたとえると、そこから独立したのが弟だというわけです。それには歴史的な裏づけがあり、葛野郡(現在の京都市西部)から独立してできたのがこの乙訓郡だったのです。 名前の由来はこのくらいにしておきましょう。 乙訓寺は、真言宗豊山派に属しており、春には牡丹が見事な花を咲かせることから「牡丹の寺」としても知られています。 太古の物語かつて、オホドノミコトという人物がいました。応神天皇の孫で父は彦主人王。近江(現在の滋賀県)に生まれますが、幼いころに父が他界したため、母・振媛はオホドを連れて越前(現在の福井県)の実家に戻り、そこで暮らすようになりました。それから数十年を経たある日のこと、オホドのもとへ当時の権力者であった豪族・大伴金村が訪ねてきて、オホドが新しい天皇に任命されたことを告げます。 あまりにも荒唐無稽な話でしたが、すぐに使いを送り真相を確かめると、どうやら本当だということがわかりました。そこで、オホドはこれを承諾し、河内国(現在の枚方市)に入り即位。58歳で第26代・継体天皇となりました。そして518年、現在の乙訓寺のあるこの地に宮殿を建てました。そこからさらに、大和国(現在の奈良県桜井市)をめざしましたが、そこに到着するまでに、越前を去ってから20年を要したと言われています。 それからほぼ1世紀が経ち、世は飛鳥時代(592~708)、第33代・推古天皇(日本初の女性天皇)の治世になります。まず、歴史舞台に登場する人物が、聖徳太子です。推古天皇の甥であり、摂政であった太子が603年、天皇の命に従って建立したのが乙訓寺でした。さらに、538年に渡来した仏教を興隆させるために、各地に多くの寺院を建てました。 ちなみに、当時の乙訓寺の本尊は十一面観音でした。 発展を遂げる伽藍時は移り、奈良時代(710~784)の末期のこと。第50代・桓武天皇は奈良からの遷都を考えていました。最も信頼を寄せていた側近・藤原種継の提案により、784年、乙訓郡を含む山城国(種継の故郷)の長岡に造宮の勅令を出します。このとき、乙訓寺は京都七大寺の筆頭に位置づけられ、大増築が行われました。その当時の敷地は今よりも広く、北から南まで180メートル以上もあったと言われています。 度重なる悲劇長岡京に遷都後、悲惨な事件が起こります。なんと、桓武天皇が大和国に赴いた留守の間、造宮使でもあった側近の種継が暗殺されたのです。造宮監督中に矢で射られるというものでした。関与者十数名は処刑されましたが、悲劇はそこで終わりません。疑惑の矛先はさらに広がり、最終的には皇子で桓武の同母弟でもある早良親王までにおよびます。桓武は早良の地位を廃し、この乙訓寺に幽閉したのです。 早良はこれに激しく抗議。断食という手段で必死に無実を訴えますが、聞き入れられず、淡路島への追放を宣告されます。そして絶望と憤慨の果てに、島に配流される途中で命尽きてしまうのです。 この早良の死後、不幸な出来事が相次いで起こります。 桓武と早良の生母の死、皇后陛下の死、皇太子の発病、さらに疫病は猛威を振るい、洪水などの自然災害が都を襲いました。 これらすべてを早良の祟りとして恐れた桓武は、早良に「崇道天皇」の贈り名を授け、配流先から大和国に移葬し魂を鎮めようとしました。乙訓寺の境内にもその供養塔があります。 平安仏教の二大宗祖812年10月のことです。平安時代(794~1192)を代表する二人の偉大な僧侶が、ここ乙訓寺で歴史的な会合を持ちました。いずれも中国で学んだ仏教を日本に持ち帰り、それぞれ天台宗、真言宗を開きます。一人は伝教大師とも呼ばれる最澄であり、もう一人は、弘法大師こと空海です。811年にこの乙訓寺の別当(住職)となった空海を最澄が訪ねてきたのです。では、いったいどんなことが話し合われたのでしょうか? それは、最澄が習得できなかった密教の内容を空海に教えてほしいというものでした。空海に「理趣経」という教えの経典を貸してほしいと頼んだのです。しかし、空海は、「この経典は読むだけで表面的に理解するのはかえって危険である」という判断から、断固これを拒否しました。知識のみの習得や独学的な修行ではなく、実践や経験、そして師弟関係を重んじるのが密教であるとの認識が最澄には足りない思われたからです。これを機会に、二人の関係は途切れてしまいます。 宇多天皇の仮宮殿897年、第59代・宇多天皇が突然退位します。皇太子を元服させ、これを醍醐天皇として立て、譲位したのです。その理由についてはいくつか説があり、仏教に専念するため、または藤原氏の影響から逃れるためとも考えられています。 乙訓寺はそれ以来、退位した天皇が外出の際に滞在する場所として使われるようになります。法皇となった宇多がここを行宮(仮宮)としたため、当時は「法皇寺」と呼ばれていました。 戦火により衰微室町時代(1334~1573)に入ると、乙訓寺は禅宗の所有となります。しかし、当時の武将・織田信長の合戦により被害を受け、衰退してしまいます。江戸時代の復興いったん衰退した乙訓寺が再興されるのは、江戸時代(1603~1867)の中期になってからです。再建を請け負ったのは、当時の将軍・徳川綱吉の信任厚く、その命により真言宗豊山派の寺院(現在の護持院)の住職となっていた新義真言宗の僧、隆光でした。1693年、隆光により乙訓寺が中興されると、将軍綱吉は祈祷寺としてこれを優遇します。乙訓寺は、再び真言宗の寺院となり、乙訓寺法度という特別法が制定されました。 ところで、将軍綱吉は「犬将軍」と呼ばれていたのをご存知ですか? その理由はというと、確かに戌年生まれではありました。犬のように愛嬌があったからかというと、それは定かではありません。どうやら、「生類憐みの令」という――魚や貝類、昆虫までも含む――すべての動物を殺してはいけないという法律を作ったことから来ているようです。ちなみに、そんなことを助言したのも、綱吉とその母・桂昌院のお気に入りだった隆光だったという説もあるとか。また、法に背いた者は厳しく処罰されたという記録もありますが、一方で、そのような話には根拠はなく、実際に庶民に適用されたことはなかったとする考え方もあるようです。 江戸時代も終わり、明治時代(1868~1912)に入ると、廃仏毀釈による厳しい状況もありましたが、乙訓寺は、それを乗り越え今日に至っています。 秘仏、合体大師像乙訓寺の現在の本尊は、八幡明神と弘法大師(空海)が合体した合体大師像です。八幡とは応神天皇(継体天皇の祖父)が神格化されたものです。では、実際に、どのように合体しているのか興味深いですね。さっそく現地へ行って確認してみたいところですが、残念ながら「秘仏」なので、一般には公開されていません。33年ごとに開帳されるようです。最近では、 1997年だったという記録があるので、次は2030年あたりになりそうですね。 合体像については、このような言い伝えがあります。 空海は、不幸な最期を遂げた早良親王の魂を鎮めるため、八幡大菩薩を彫ろうとしますが、なかなかうまくいきません。そんなとき、現れたのが老人の姿をした八幡明神でした。そしてこう言います。「あなたは私の肩から上を彫りなさい。私はあなたの体を彫りましょう」。 そして、できあがった二つの部分を合わせてみると、なんと寸分たがわず一致したというのです。なるほど、ご秘仏だというのも納得できますね。 その他、毘沙門天像も空海によるもので、こちらは拝観できます(予約制)。 毘沙門天は「多聞天」とも呼ばれ、4つの方角から仏法を守護する四天王の一つで、北方を守るとされています。この立像は国の重要文化財に指定されています。 牡丹の寺――最初の2株から牡丹で有名な寺院といえば、関西では、まず奈良県の長谷寺があげられますが、乙訓寺と同じ宗派であり、実は牡丹の根も同じものだったのです。1934年のこと、乙訓寺は台風により大きな被害を受けます。そのときに、境内を見舞った長谷寺の第68代住職が2株の牡丹を寄進してくれたのです。その後、大切に育てられ、今では約30種、2000株となり、見ごろの晩春に一斉に花を咲かせます。 ここも注目時間に余裕がある方は、庭をゆっくり歩いてみてください。たとえば、鐘楼の橦木(鐘つき棒)。橦木と言うだけあって、通常は木でできているのですが、ここでは竹が使われています。ちょっとしたレアものですね。寺院の近くには竹林がたくさんあって、いろんなものが竹から作られています。 また、牡丹の花壇に立てられた油紙の傘の涼しげな感じも良いですね。夏の日差しや雨から守るという、花への愛情を感じさせます。 散歩と花見をひとしきり楽しんだ後、冷たい甘酒はいかがでしょうか。 特設のお店で、甘酒とセットになったタケノコの甘辛煮(醤油と砂糖で煮たもの)と熱いお茶が楽しめます(その年によって異なります)。 そうです、あちこちに竹林があるので、その芽=タケノコは特産品なのです。乙訓寺の門前でもお土産として販売されています。 |