壮観な仏像に込めた平和への願い
国家の平和と安泰を願い、聖武天皇によって造立
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開眼供養会
東大寺の大仏、それは聖武天皇の長年の願いでした。国の安泰を祈り、たび重なる災難を鎮めたいという思いから、743年、天皇は、東大寺本尊である大仏造立の詔(勅令)を発します。それから10年後の752年4月、金色の仏像がついに登場。その全容は実に大きく、高さ14.7メートル(48.23フィート)、壇の周囲は70メートル(229.68フィート)にもおよびます。
大仏開眼供養(仏像に魂を入れる法要)のこの日、東大寺の境内には、聖武天皇自身をはじめ、聖武の妃と娘である光明皇后と孝謙天皇(女帝)といった要人が列席し、参列者は1万人にも上ったとされています。
法要では、この造仏事業の監修を務めた僧、行基の招きにより、インド生まれの渡来僧であり、日本で華厳宗を開いた菩提僊那が導師を務めました。
数ある仏の表現の中で、聖武天皇が選んだのは「世界を照らす者、宇宙の真理」を表す盧舎那仏でした。かつて河内(現在の東大阪)を訪れたとき、この盧舎那仏を崇拝する人々の様子に深く感動したのがきっかけだと言われます。
こうして、長年の夢がついにかなったこの日、天皇はどんな思いで、仏の雄大な姿を見上げたのでしょうか。左手に与願印(バラダ・ムドラ=願いを聞き届けるという意味)を結び、右手は施無畏印(アブハヤ・ムドラ=恐れることはないという意味)を結んだ盧舎那仏の面影はことのほか、慈悲深く思えたにちがいありません。
与願印 |
施無畏印 |
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東大寺の起源
東大寺の歴史は、金鍾寺が起源となります。
聖武天皇は待望の長男・基親王を授かりますが、なんと1歳の誕生日を迎えずして他界してしまいます。その弔いに建てられたのが金鍾寺であり、したがって当初は、現在のような大きな仏の家を意図したものではなかったのです。
当初、聖武天皇が仏像建立の候補地としてあげていたのは近江(現在の滋賀県)の紫香楽宮でした。しかし、山火事や地震など、たび重なる災害が続いたことから不吉な場所であるとされ、その試みは断念せざるをえませんでした。落胆した聖武は、奈良・金鍾寺に戻り、そこに仏像を立てることにしたのです(今にしてみれば、最善の決断だったのかもしれません)。
それを機会に、寺の名前は、金鍾寺から金光明寺と改名され、これが東大寺の前身となります。
東大寺という現在の呼び名は、仏像が建立された後につけられたものです。
苦悩と疲弊、混迷の世の中にあって
聖武天皇は、即位前の名前を首皇子と言いました。父である文武天皇が25歳の若さで崩御したとき、皇子はまだ皇位を継ぐには幼すぎたため、いったん、祖母である元明天皇、さらに、叔母の元正天皇が即位することになります。
元明天皇の時代には、藤原京(現在の橿原市付近)から平城京(現在の大和郡山市付近)への遷都が行われました。710年のことでした。
そして、724年、24歳のとき、いよいよ第45代天皇として即位しますが、当時の時代背景は、非常に不安定でした。干ばつ、飢饉、大地震、天然痘など、ありとあらゆる災難に見舞われた世の中だったのです。
当時は、飛鳥時代(592~708)からの氏族間抗争を勝ち抜いた藤原氏が圧倒的勢力を見せ、藤原不比等(聖武の祖父)を筆頭に藤原四兄弟と呼ばれる不比等の男子(聖武の叔父)を中心に栄華を極めていました(737年にはその四兄弟も天然痘に倒れることになります)。
藤原氏とその他の一族との権力抗争は、長屋王の変(729年)や藤原広嗣の乱(740年)を引き起こしました。とくに後者は、聖武天皇をも苦境に陥れることになり、都の襲撃を恐れた天皇は、遷都を繰り返します。実に10年間のうちに平城京(奈良)から恭仁京(京都)、難波宮(大阪)、紫香楽宮(滋賀)、そしてまた平城京に戻るという目まぐるしさで、国民にも大きな負担をもたらしました。
希望へ―ひとすじの光
相つぐ災害や抗争、疫病に疲弊しきった聖武天皇にとって、唯一の希望が仏教でした。741年には「国分寺建立の詔」(全国に国分寺・国分尼寺を建立する勅令)を発し、仏教の研究を促進します。
なかでも、注目されたのは、アヴァタンサカ(Avatamsaka)という経典で、中国語の訳語をもとに、日本では「華厳経」と呼ばれています。
アヴァタンサカとはサンスクリット語で「花飾り(花の輪)」を意味し、仏教の開祖である釈迦牟尼(ゴータマ・シッダルタ)の没後、500年から600年の間にまとめられた大乗仏教の経典です。釈尊の初期のころの説法をもとにしたもので、一般の人々には理解できない崇高な悟りの境地が説かれています。
740年(金鍾寺時代)には、良弁という僧がこの経典の講義を取りまとめ、はるばる新羅(朝鮮半島の古代王朝)から著名な僧、審祥を講師として招いたことからも、いかに重要な事業であったかがわかります。
講義では、仏陀跋陀羅によって翻訳された中国語版の60巻が使用され、毎年20巻ずつ取り組み、第1回の講義を終えるのに3年かかったとされています。
その他の仏像
大仏の両側にも仏像があります。このような仏像を如来の「脇侍」と言い(大仏は盧舎那仏という如来)、一般的には菩薩像が安置されます。
向かって左は「虚空蔵菩薩」と呼ばれ、広大な宇宙のように無限の智恵と慈悲を持つ菩薩を表し、江戸時代(1603~1867)に作られました。
右の像は、「如意輪観音」で、これも江戸時代の製作です。そもそも名前の「如意輪」とは「如意宝珠」と「輪(法輪)」の意味で、「如意宝珠」とは「すべての願いをかなえる宝の珠」、「輪(法輪)」とは「チャクラ」とも言い、もともとは古代インドの武器であった「チャクラム」に由来するもので、それが転じて煩悩を破壊する仏法を象徴しています。
虚空蔵菩薩 |
如意輪観音 |
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その後、戦禍などにより、甚大な被害を受けますが、江戸時代になって再建されます。明治(1868~1912)、昭和(1926~1988)の時代になり、大規模な修繕作業も行われ、現代にいたっています。1998年、東大寺は世界文化遺産に登録され、世界各国から大勢の人々が訪れています。
シカだからしかたない?
昔はお行儀のよかった鹿もずいぶんマナーが悪くなってきました(一説には鹿をからかったりする観光客の責任だという声もあるようです)。神さまのお使いだと言われているだけに、困ったものです。最近ではお辞儀もしないどころか、「鹿せんべい」を持っている人を見つけると直撃!手を噛まれることもあるので十分注意してください。とはいえ、可愛い動物です。
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