ど田舎に生まれてみなさん、こんにちは。管理人のそれはさておき、前述のように、私の生まれ育ったところは「ど」がつく田舎なので、電車もなければ、本屋もない。スーパーもなければ電気屋もない。1時間に1本しか来ない(今は過疎化でもっと来ない)バスに乗って外を見渡せば、山、山、ときどき川、そしてまた山。今では過疎化と自家用車の普及で、そのバスも、ときどき小さなバスが走っているだけ。もちろん会話学校なんてものがないのは言うまでもありません。外国人の姿などいまだかって見たこともなく、まさに生まれたところが悪いのか、英語を学習するには最悪の環境と言ってもいいでしょう。学校を卒業しても就職先は「農協」「町役場」「教師」くらいの選択肢しかありません。幼い頃は、文字通り野山をかけめぐり、夏の夜には蛍狩り、川原で石を投げたり投げられたりしてケンカもし… といった、今の子供たちとはちょっと違った生活を送っていました。もちろん、塾なんてものもありません。そんな環境にありながら、あるいは、そんな環境だったからこそかもしれませんが、子供心に「未知への好奇心」や「異文化へのあこがれ」のようなものがあったようです。 小学校も高学年になると、学校から帰ってやることといえば、マンガを書くかテレビを見ること(もちろん、勉強なんてしません)。その頃は漫画家にあこがれ、少女マンガなどを描いていたのですが、一度母親に見つかって原稿を破り捨てられたという経験もあり、親の前ではマンガを描くのはご法度。もっぱら親のいないときを狙って鬼の居ぬ間に洗濯でしたが、それ以外にも好きだったのが、海外ドラマの再放送番組を見ること。なかでもお気に入りは「宇宙家族ロビンソン」 英語との出会いさて、そんな「ど田舎」のカントリーガールとして育った私が、初めて英語と遭遇したのは、車で1時間以上走ったところにある小倉という都会(私にとっては)の大きな病院に行ったときのこと。当時、小児喘息を患っていた私は、近所の診療所の治療では効果がなく、父親に連れられてその病院に通っていたことがありました。そんなある日のこと、(たぶん)アメリカ人とおぼしき家族が治療に来ていたのです。これが、物心ついてから初めて遭遇した西洋人だったのではないかと思います。まあ、田舎者ですし、実際に金髪で青い目の西洋人を見るのは初めてなので、たぶん、もの珍しそうにじろじろ見ていたかもしれません。そのときに、その家族が話していたのが(たぶん)英語だったわけで、そのことが妙に不思議だったのを覚えています。そのときの心境をイメージしてみると次のようになるでしょう(まあ、田舎者丸出しですけどね)。あれから幾星霜。今、当たり前になってしまっていますが、ふと考えると、こうして、外国語で外国の人たちとのコミュニケーションが楽しめるようになったということは、幼い頃の夢を一応実現することができた自分がいるわけです。しかし、仕事やプライベートの出会いを通して、何歳になっても日々学びのネタは尽きることがありません。今後も、人間としての考え方や感じ方の幅を広げながら、焦らず地道に生涯学習を続けていきたいと思っています。 |