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自然は無限のアーティスト淡い赤、熟した紅、明るい朱… 名前がつけられないほどの赤の種類とその絶妙なブレンド。黄色もまたしかり。鮮明なカナリア色、柔らかな琥珀色、黄金や麦色など… 自然のパレットには限界がありません。 偶然の色の調和の美しさに、思わず写真やビデオに撮り、あるいは絵に描くことで、永遠に手元にとどめておきたくなります。好きなときに取り出しては何度も何度も味わうために…。 しかしやがて、それがいかに意味のないことなのかがわかるのです。人工的な方法を尽くしても、完ぺきに再現することはできない。そう、自然の美しさは、自然にしか描けないのです。 少数派スポットで秋をもっと堪能さて、今年もその季節がやってきます。色づく葉の芸術を今年はどこで満喫しますか?京都の清水寺や嵐山の有名どころで、観光客の大群に合流し、頭ごしに垣間見るだけで「よし」とする方法もあります。しかし、人間ではなく、秋の美しさだけを見たい!というなら、この神峯山寺はいかがでしょう?山の中腹に位置し、楓やもみじの他にもさまざまな木々が色づいています。 神峯山寺は京都と大阪のほぼ中間、大阪府高槻市の田園地区にあり、天台宗に属する山岳信仰の寺院です。本尊として四天王の一人、毘沙門天がまつられています。 もともと修行のための霊場なので、気の利いたお土産屋さんもなく、ピクニックを楽しむような場所ではありません。しかし、運動不足で弱った足や心臓をいじめながら、やっとのことで、両脇に狛犬の立つ門までたどり着くと、心身ともに充実感を感じるはずです。 神峯山寺の伝説色鮮やかな木々で目を楽しませながら、ここ神峯山寺に伝わる物語にしばし思いをめぐらせてみましょう。
合戦の神から繁栄の神へでは、毘沙門天とは一体どんな神様なのでしょうか。日本では毘沙門天をまつった寺院が多く、四天王の一人として数えられています。多くの仏教の神々と同じように、本来はインドの神であったものが、仏教に取り入れられ、東アジアに伝わりました。また、多聞天とも呼ばれますが、文字通り「多くを聞く」という意味で、起源となったサンスクリット語の名前に由来しています。 ということで、ぜひ悩みなども聞いてほしいものですが、時代とともにその役割も変化し、日本では戦いの守護神とされてきました。その姿も、一般的には、右手に宝塔を持ち、左手に棍棒を握った古代中国の戦士として表現されています。 事実、毘沙門天は、勇気や勇敢さの象徴として、多くの武将の信仰を集めてきました。たとえば、自らも僧であり、深く仏に帰依していた上杉謙信は、毘沙門天の「毘」の文字を軍旗にあしらいました。その他、南北朝時代(1336~1392)の楠木正成をはじめ、室町時代(1334~1573)の将軍足利義満、戦国時代(1467頃~1573)の松永久秀など、多くの歴史的人物の信仰の対象となったのが毘沙門天でした。 しかし戦乱の世も終わり、平和な時代が訪れると、人々の関心は戦争から繁栄へと移っていきます。それにつれて毘沙門天の役割も次第に変わっていきます。 合戦の神から繁栄の神へ――。発祥の地・インドでは元来、財宝の神とされていたことを考えると、ごく自然の成り行きだと言えるでしょう。日本の七福神の一人であることからも、多くの商人たちから崇拝されたことがわかります。 皇室とのつながり寺の周囲を歩くと、重要な人物をまつった二つの石塔があります。一つは光仁天皇の分骨を安置する十三重塔、もう一つはの光仁天皇の子であり出家した開成皇子の髪を納めた五重塔です。この二人は日本の歴史に何度も登場する桓武天皇に縁のある人物で、光仁はその父、開成は兄にあたります。 では、この二人は、神峯山寺にどのようなつながりがあるのでしょうか。 奈良時代(710~784)の774年、開成皇子は父・光仁天皇の命により勝尾寺(現在の大阪府箕面市)から移り住み、神峯山寺を復興し、その住職となります。その後、神峯山寺は、最澄の開いた天台宗の傘下に入りますが、最澄は、当時の天皇であり、開成の弟である桓武天皇の庇護を受けていたという政治的な事情もあったようです。ちなみに、桓武天皇といえば、都を奈良から長岡(現在の向日市)、京都(平安京)へと移した人物です。 ところで、京都、奈良にはたくさんの寺院があるにもかかわらず、なぜ皇室がこの神峯山寺を重んじたのでしょうか? そこには、戦略的な理由があったのです。もともと山岳信仰の祖によって建立された神峯山寺は、山から山へと移動する修行者たちの情報拠点となり、宮廷の外で何が起きているのかを知る情報源の役割を果たしていたと考えることができるのです。 |