日本語と英語の違いとは?省略する日本語と省略できない英語ここでは、日本語の短く、省略された言語表現の特徴について触れてみたいと思います。俳句の世界での省略前のページでも述べましたが、日本人は、その歴史的背景、国民性により、長い年月をかけて、言葉に頼らないノン・バーバルな意志伝達の手法を確立させてきました。むやみに言葉を使わず、ギリギリまで切り詰めて表現したり、心地よい真綿にくるんだようなおぼろげな表現をすることで、その言外のメッセージを読み手や受け手に推察させるという手法は、情報の発信・受け手がともに同じ精神を共有する単一民族だからできることだと言えます。言い換えれば、本来、日本語の言語表現は、言葉を発する側だけでなく、受ける側も積極的に参加することが求められる絶妙な二人三脚の上に成り立っているのかもしれません。 言葉を節約するという精神が最もよく表れているのが「俳句」です。今では、この日本特有の芸術は、海外でも研究が進み、日本語以外の言語での創作活動も行われています。日本人なら誰でも知っている松尾芭蕉の有名な俳句に、
という一句があります。これを、英語に翻訳するとどうなるかということですが、あのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、
と、実にシンプルにそのまま訳しています(ただし、「蛙」を複数で訳出)が、これは、俳句という文学作品であることを考えれば、これ以外(あるいはこのバリエーション以外)の訳は考えられないのですが、別の文学者である、カーティス・ヒドン・ペイジ
つまり、「時の流れの静けさのなかで、池がぽつんとひとつ、眠っている(…)忘れ去られたかのように、水面は動かず、音もせず(…)そこへ、突然、一匹の蛙がぽんと飛び込む」といった情景描写をした表現になっています。俳句の翻訳において、ここまでの描写を入れることについては、是か非かの議論もありそうですが、日本語のフレーズを英語に翻訳する場合、ある程度の「補足」をしなければ、(芸術ではなく)一般的にわかりやすい英語表現にならないのは事実です。 俳句だけではなく、通常の文章ですら、日本語は知らず知らずのうちに、言葉を省略した言語表現になっていることもあります。そして、それが日本語として自然な文章であるわけです。ちなみに、最初の例の「―」もそうですが、「. . .」は、「古池や」の「や」であり、俳句における「切れ」(「間」)を表すとされています。 一般的な省略実際に、企業から発信される情報などで、一般的によく使われそうな日本語表現をあげてみましょう。前の文章とのつながりや脈絡で推測できるという前提で、言葉の省略という方法がよく使われています。赤字は省略されていると推察される言葉を表します。
これは、「のど飴」のパッケージに書かれてある情報です。まず、「こんな時に」という見出しですが、商品がキャンディーだということがわからなければ、こんな時に一体どうすればいいのかわかりません。もっとも、こんな時には「使わないでください」といった禁止事項の場合は、きちんと「しないでください」の内容が明記されるはずですから、「召し上がる」以外の他には考えられないのですが、このまま英語にして ここは、きちんと、何をするのかという動詞をおぎなう、あるいは、全く別の観点から発想した見出しをつけるなどの工夫が必要です。 次の例を見てみましょう。
チャック付きの袋で、開封後は、このチャックを押さえることによって密閉するようにという注意書きです。たいていは、チャックのすぐ下などに印刷されるため、場合によっては、上の赤字ほどの情報をおぎなう必要はないかもしれませんが、それでも、袋の何を押さえるのか、押さえてどうするのか(あるいは、どうなるのか)、といった情報は補足する必要があります。 その他、日本語では省略されている部分が気にならない(気づかない)場合もあります。たとえば、会社案内などでよく出てくる「21世紀の人と社会に貢献」といったフレーズですが、英語的な発想をすると、いきなり「人間や社会」に貢献というよりも、人間や社会の何に貢献するのかを補足する必要があります。 また、「海外企業の参入など、厳しい状況にあって」といったフレーズでは、海外企業の参入だけでは、次に来る「厳しい状況」には直接つながらないため、「海外企業の参入(による競争の激化)」など、括弧内のようなフレーズを挿入することで、より英語らしい文章になります。 逆に、英語から日本語への翻訳ライティングでは、日本語から英語の場合に補足したり、挿入したりする部分をそぎ落としていくことで、より日本語らしい表現になります。 もちろんこれは、情報として必要な部分を勝手に削除したり、追加したりするというのではなく、あくまでも、 |