征服や侵略を経験しなかった歴史 (2)確かに英語はうまくなりたいのですが、日本人が英語に対して持っているような「良いイメージ」「話せたらいいな」といった憧れ的なイメージと、被征服民の人たちが征服民の言語に対してもつイメージとはおよそ正反対のものがあると思います。自分たちの古(いにしえ)よりの文化や言語の代わりに使わなければならない(ならなかった)言語というのは、嫌悪の対象だったかもしれませんね。こういうことも踏まえたうえで英語と向き合うとまた違った局面が見えてくるかもしれません。英語を習得したいと思っている人が(私自身も含めて)認識しておいたほうがいいと思うのは、英語ができてもエライのではないということ。歴史的にみても何か国語もできる人というのは、マイナーな国の、強いて言えば「弱国」の人が多いということです。現にアメリカでもイギリスでも英語しかできない人はたくさんいるわけで、外国語を学ぶ人というのは手段として学ばなければならないからに他ならないからです。 若いうちからアメリカなどに留学したりして自分は英語ができるんだ、国際人なんだと得意になっていらっしゃる方もいるかもしれません。果たしてどうなんでしょう? 勘違いして欲しくないのは、たとえばアメリカナイズして帰って来られた、それはただアメリカ人のようになって帰って来ただけのことです。ひょっとすると日本の文化も捨てて(知らないままに時が過ぎ忘れてしまって)、西洋の文化や言語に「征服」されただけかもしれませんね。 確かに今後、英語はその簡潔性や簡易性から世界共通語になっています。でもそれはそのままアメリカ英語やイギリス英語、オーストラリア英語などがスライドするのではなく、共通語としての英語が確立されていくべきだと思うのです。 英語を共通語としながら、自分たちの固有の文化や言語を残し、特異性を出していく。共通性と特異性の融和こそが21世紀ではないかと考えています。そして、そのための準備として英語を勉強するのであり、同時に日本語、日本人としての良い部分も学んで行きたいと思います。もちろん、英語の習得はネイティブを「模倣」することから始まります。しかし、それはあくまでも学習のための「模倣」であり、自分のアイデンティティ自身が「征服」されてしまうことではないと思います。 言いかえれば、英語が世界の共通語になっていけばいくほど、自分の文化をきちんと持っておくこと、自分のアイデンティをしっかりと確立することが大事になってくるわけです。 |