歴史的考察
上の説明で、スペイン語にはそもそも純粋な「受身形」というものがあるのかということが問題になってきましたが、言い換えれば、「あるような、ないような」というのがスペイン語の受身形なのかもしれません。
スペイン語の親であるラテン語の受身形を見てみると、なるほどとうなづけるものがあります。スペイン語の「
ser/estar (助動詞)+動詞の過去分詞」のような受身形はすでにラテン語にもあったのですが、同じラテン語でも、そういった複合形が登場するのは「俗ラテン語」 (
latín vulgar) と呼ばれるラテン語の方言においてです。
ところが、もともとラテン語には、複合形ではなく、
amo (私は愛する)→
amor (私は愛される)、
amas (君は愛する)→
amaris/re (君は愛される) などのように、動詞の語尾を活用させて表現する「受身形」がありました。また、スペイン語の
se に該当する再帰代名詞を使った用法もあり、その用例のなかには、意味的に「受身」に近い意味を持つものもあったようです。どうやら、こういったラテン語の受身的な表現の特徴のなかに、スペイン語の受身表現のルーツがありそうです。
つまり、こういった語尾変化に基づくラテン語の「受身形」や再帰代名詞を使った表現には、「受身」以外の用例が多く含まれていたというわけで、いわゆる
中間態(
voz media:能動態と受動態の中間)と呼ばれる用例がそれに該当します。また、形式所相動詞(
verbo deponente)と呼ばれる「受身」の形を取りながら意味は能動態である動詞も存在しており、「受身に見えて中身は受身でない」ような性質を持っていたと言えます。こういったあいまいなラテン語の受身の性質を受け継いだのが、スペイン語の受身表現だと理解することができるでしょう。
次に、再帰代名詞
se を使った再帰的受身ですが、前述のように、ラテン語にも再帰代名詞の
se というものがあり、「自分を洗う」といった本来の再帰的用法の他に、中間態としての用例を持っていました。どちらかというと、再帰的用法よりは後者の用例のほうが多かったとも言われており、そういった「中間態」の用例から、スペイン語の再帰的受身表現へと発展してきたようです。
さらに、スペイン語は能動的視点を持っているため、行動主を主語とした文章表現が基本です。よって、行動主を言及したくない、行動主がわからないという場合にのみ、「受身」が使われていたのですが、それは受動主が3人称の場合のみに限られていました。第三者のことについては、「誰が行為を行ったか」といった経緯がわからない(問題にしない)ということは十分起こりうるので、これも当然といえば当然のことかもしれません。
というわけで、
littera scribitur 「手紙が書かれる」などと語尾変化に基づく受身形を使った表現には、どうも違和感があるということになってきます。そこで、主語となる「手紙」といった物を強引に「行動主化」し、再帰代名詞3人称の
se を入れて
littera se scribit 「手紙が自分自身を書く」というふうに表現するようになったという説もあります。つまり、形だけを見ると、「受身」どころか立派な「能動態」というわけです。
こうしてみると、この文型であれば必ず受動態といった明快な図式が成り立たないのがラテン語の受身形であり、スペイン語特有の
se を使った表現だと言えます。
また、受身表現の文型も受身以外の用例を持っているため、「能動態 vs 受動態」ではなく、「能動態 vs 非能動態」という対比を用いて「態」というものを捉えたほうがわかりやすいかもしれません。「能動態 vs 非能動態」とは、言い換えれば、「視点が行動主にあるか」(能動態)、「行動主からそれているか」(非能動態)ということに他なりません。行動主を主語にする場合は能動態であり、行動主を主語にしない(ぼかす、受動主を主語にする)場合が非能動態というわけです。
ですから、スペイン語では、「これが受身だ!」といった明確な区分けがあるというよりも、「能動態であるか、能動態でないか」という対比があり、「能動態でない」表現のなかに一部として含まれるのが「受身」表現であると理解するほうがより適切ではないかと思われます。