継続と完了の考え方
「点過去」と「線過去」の比較のところでも挙げていますが、「継続する出来事」は「線過去」、「継続しない出来事」は「点過去」という大きな使い分けの区分けがあります。
ところで、その「継続」という概念をさらにブレークダウンしていくと、「継続=回数を重ねる=習慣になる=完了していない」という図式が成り立ちます。逆もまたしかりで、「継続していない」ということは「完了している」ということになります。要は、言葉の定義・表現の問題で、その出来事が「終わっているか、続いているか」によって、「点過去」なのか「線過去」なのかということになるわけです。
ところが、ひとくちに「継続する、しない」と言っても、その判断が簡単そうで実はむずかしいということもでてきます。たとえば、
「点過去」と「線過去」の時間のところで挙げた例文で考えてみましょう。
Llegaba a casa cuando sonó mi movil.
(家に到着しようというときに携帯が鳴った。)
Sonaba mi movil cuando llegué a casa.
(家に着いたとき携帯が鳴っていた。)
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上の例文のほうは、「家に到着しようとしていた」という部分が「線過去」になっていますが、これを単純に「線過去=継続している、完了していない」という図式に当てはめると、「あれから1年も経つのに、まだ家に到着していないんです」などという奇妙なことになってしまいます。同様に、下の例文についても、「まだ携帯が鳴り続けています」というようなことになってしまいます。もちろん、SFの世界でもない限り、こういう状況はありませんので、誰も本気でそんなことを考える人はいないのですが、言葉じりにとらわれると、「完了しているはずなのになぜ線過去?」など、悩みの世界に入ってしまうことも考えられます。
つまり、ここで言う「継続、完了」とはどういうことかというと、
「点過去」と「線過去」の時間でも述べましたが、ある基準となる時間(絶対時制)をもとに、その時点で、該当する出来事が継続しているか、完了しているかということなのです。最初の例文では、「携帯が鳴った」という基準の時点から見て、「家に到着する」という動作が継続中(未完了)の状態であるということで、二番目の例文では、「家に到着した」という基準点から見て、「携帯が鳴る」という出来事が継続中であったというわけです。
ですから、「継続、完了」という場合、「現在」という現実の時間から見ると、過去のことですから当然、ほとんどの事柄が終わっているはずなのです。現在から見た「継続、完了」ではなく、なんらかの時間を基準とした相対的な「継続、完了」だと理解するとわかりやすいのではないかと思います。
では、基準となる過去の時間から見て、事柄がすべて完了している場合やすべてが継続している場合はどうなのかというと、それぞれ、両方とも「点過去」、「線過去」を用いればいいのですが、文章としてニュアンスなどが異なってきます。
Sonó mi movil cuando llegué a casa.
(家に着いたとき携帯が鳴った。)
Sonaba mi movil cuando llegaba a casa.
(家に到着しようというときに携帯が鳴っていた。)
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「点過去」と「線過去」を組み合わせた文章に比べると、「家に着く」と「携帯が鳴る」という2つの出来事の微妙な時間差が表現できません。上の「点過去」を用いた例では、「朝起きた、歯を磨いた、家を出た」といった日記的に「事実」だけを羅列する感じの文章になります。また、「線過去」を用いた例では、どちらの出来事も完了していないことになるので、「事実」(実際に起こった)としての実感がなく、たとえば、そのときに実際に家に到着したのが事実かどうかわからないという解釈になります。
つまり、「家に帰ろうとしていたが、携帯がかかってきたので、そのまま引き返して、携帯の相手に会いに行った」ということも十分考えられるのです。こういった「あいまいさ」を残すのが線過去でもあり、「娘よ、昨夜はちゃんと家に帰ったのかね」と聞かれて、
Volvía a casa と答えた場合、帰ろうとはしていたようだが(途中までは帰ってきたが)、実際に帰ったかどうかは不明だということになるのです。
したがって、「継続、完了」というのは、厳密には、「継続しているのか、完了しているのか」がはっきりわからない、どうでもいい(問題にしない)というふうに言いかえることもできるでしょう。