いにしえの民族ケルト人 (1)
古代ヨーロッパのロマン
最後までローマと戦った女戦士ブーディカ (Boudica)、円卓の騎士 (Knights of the Round Table) を従えてアングロサクソンを撃退したアーサー王 (King Arthur)――。ケルトの英雄には、勇気と栄光のイメージがあります。その一方で、ヘッドハンター (head hunters) の異名をとり、切り落とした敵の首(頭部)を尊んだといわれるケルト人ですが、それは、「頭」にはその人の魂が宿っていると信じられていたらかだそうです。
ギリシアやローマ人の残した記録からケルト人のイメージをたどってみると――まず、その風貌は大柄でたくましく、男性は口ひげを長く伸ばしていたようです。そして、髪は金髪で肌の色も白く、その金髪をさらに強調するために石灰水で洗って脱色していたとか。なんともこだわりがある人たちですね。また、ブリトン人 (Britons) やピクト人 (Picts) は腕や顔に青い入れ墨をしていたとも言われます。
女性もたくましさでは負けていないようで、身長も平均的なローマ人男性よりも高かったとか。髪は三つ編みにしてたばねたり、つばのない帽子をかぶったりしていたようです。男女ともに格子縞などの大胆な模様を好み、ウールやリネンで作ったチュニックを着用し、肩掛けなどを留めるブローチもケルトの服装の特徴でした。さらに、裕福な人々は金や銀製の首輪や腕輪、指輪などを身につけていました。
ちなみに、ブリテン島のケルト人は背丈も低く髪も暗い色をしていたようですが、これは、人種的に「ケルト人」という民族がいたということではありません。一般的に「〇〇人」というのは、特定の人種を表すというより、その言語や文化に属している人々という意味で使われます。
ケルト人のルーツ
「ケルト」という名前が歴史的な文献に登場するのは、紀元前517年ごろです。ギリシアの地理学者ミレトスのヘカタイオス (Hecataeus of Miletus) が、現在のマルセイユである「マッシリア」 (Massilia) 付近に住む民族について記述したのが始まりでした。
当時(紀元前6世紀~1世紀)のギリシアやローマの民族誌では、ライン川 (the Rhine) とドナウ川 (the Danube) 上流域に住む人々を指して、それぞれ Keltoi 「ケルトイ」(ギリシア語)、 Celtae 「ケルタエ」(ラテン語)と呼んでいたようです。その名前の由来を探ってみると、おそらく、ケルト人が自称していた部族名がもとになっているようですが、ケルト語 (Celtic languages) の親言語であるインド・ヨーロッパ語 (Indo-European languages) では、 kel- は「卓越した、駆動・起動する、打つ・切る」などの意味があります。
また、ローマ共和制 (Roman Republic) の時代のジュリアス・シーザー (Julius Caesar) の『ガリア戦記』 (Commentaries on the Gallic War) にはガリア人 (Gauls) の呼び名で登場します。ガリア人とは、ガリア地方 (Gaul) に住んでいたケルト人の呼び名で、ラテン語の (Gallus) から来ています。さらに、ガリアから現在のトルコのアナトリアに移住したガラティア人 (Galatians) をギリシア語で「ガラタイ」 (Galatai) と呼んでいましたが、この名前の語源は、ケルト語の galno 「力、強さ」という言葉だとも言われています。
さらにそのルーツをさかのぼってみると、青銅器時代 (Bronze Age) の後半の中央ヨーロッパにおいて、ケルト人の文化が存在していたということが確認されています。それは、主に死者を埋葬する方法に見られ、青銅器時代に出現した墳墓文化 (Tumulus culture) や、それを受け継いだ骨壺墓地文化 (Urnfield culture) にそのルーツが見られるようです。また、ケルト語の祖先であるケルト祖語 (Proto-celtic languages) が話されていたのもこの時代だとされています。
鉄器時代 (Iron Age) になると、骨壺墓地文化はハルシュタット文化 (Hallstatt culture) に受け継がれ、さらにラ・テーヌ文化 (La Tène culture) へと発展していきます。このラ・テーヌ文化の時代になると、ケルト人がヨーロッパ各地に移住するようになり、その分布は、ガリア地域、ボヘミア(現在のチェコ)、ポーランド、イベリア半島、北イタリア、バルカン半島から中央アナトリア(現在のトルコ)にまで広がりました。
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