Last update May 28, 2021

いにしえの民族ケルト人 (2)

ブリテンのケルト人

ケルト人がブリテン諸島に初めてやって来たのは、およそ紀元前1000年頃の青銅器時代でした。おそらく冒険好きな民族だったのか、地平線の向こうに広がる未知の土地――そこにはどんな世界があるのか?――好奇心に突き動かされるように、故郷のドナウ川流域を後にしたのかもしれません。あるいは、他の部族との戦争や侵略から逃れて新天地を求めてきたのかもしれません。

ひたすら北方をめざし、粗末なかご船に乗ってイギリス海峡を超え、ブリテン島の南岸に上陸。青銅器をはじめとする高い金属器技術や優れた農業技術を持っていた彼らは、森を開墾し作物を育てながら、その後200年かけて、現在のウェールズやアイルランド、スコットランドを含むブリテン諸島全域に定着していきました。彼らのように、ブリテン島に住んでいたケルト人を「ブリトン人 (Britons)」と呼びます。

しかし、その安定もやがて、新しく台頭した大きな勢力に飲み込まれそうになります。ローマの侵略でした。ブリトン人たちは、中央・南部イングランドの肥沃な土地を追われることになり、西北部の過酷な山地へと逃れ、長い間ドルイド僧が統治してきたアングルシー島などもローマの支配下に置かれました。しかし結局、ローマは、アイルランドやスコットランド、ウェールズを完全に支配することはできませんでした。そのため、ローマがケルト文化や言語に与えた影響は極めて少ないと言われています。

ローマの支配が終わり、アングロ・サクソン人 (Anglo-Saxons)スコッツ人 (Scots) が台頭して来ると、ブリテン島はこの二大勢力に二分されるようになります。一部のケルト人たちはアングロ・サクソン人と同化しますが、現在のコーンウォール (Cornwall)、ウェールズ (Wales) などの地域に住むケルト人は新しい勢力の影響から免れ、独自の文化を維持していきます。そうして形成されたのが、ウェールズ語 (Welsh language) やゲール語 (Gaelic languages) などのケルト語の分派です。ちなみに、Great Britain という名前の起源にもなったブリトン人の話していた言語もウェールズ語と同じ言語グループに属します。

ケルト社会

8世紀に滅ぼされたアエロン王国 (Aeron) や9世紀に征服されたカイト王国 (Kingdom of Cait)、11世紀まで生き残ったイストラッド・クラッド王国 (Ystrad Clud) などケルト人の社会はほとんどが王政でしたが、ローマとの接触が密であった地域では少数独裁政治による共和制をとる地域もあったようです。一般的なケルト社会は戦士・貴族階級、ドルイド僧、詩人、法学者による知識階級、一般人からなる3つの階級から構成されており、ギリシアやローマのような奴隷制がありました。奴隷は戦争、略奪、刑罰、借金の代替として獲得していたと言われます。

交易もさかんで、前ローマ時代から、ユーラシアを網羅する道路網が発達しており、その道路を車輪のついた荷車のようなものを使っていました。アイルランドやドイツでは湿原を横断する道路遺跡がみられます。また、スズ、鉛、鉄、金、銀などを採掘し、金属細工技術を用いて武器や宝石類を製造、ローマ人を相手に取り引きを行っていたようです。ケルト社会は物々交換だったというのが定説ですが、斧や輪、鐘の形をした青銅製の原始通貨が存在し、金、銀などの貨幣も鋳造されていたと考えられています。

野蛮で戦争好きというイメージの強いケルト人ですが、確かに、ケルト社会では部族間の戦争が絶えることがなく、政治的・経済的に有利な条件や領土をめぐって戦闘が行われていたという記録があります。また、彼らの宗教は、自然崇拝を中心とする多神教で、ケルト神話には、川の神をはじめ、山の神、森の神、都市の神など、ありとあらゆる神々が登場します。


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