スペイン語の定冠詞の歴史
日本人にとって、今ひとつ雲をつかむようでわかりにくいのが「定冠詞」という存在ですね。そもそも「冠詞」自体が親しみのない概念なのでなおさらです。そんなスペイン語の冠詞について理解を深めるためには、まず親しみを感じてもらうことが大事です。そういう意味も含めて、ここではまずスペイン語の冠詞の歴史について見てみましょう。
スペイン語の冠詞についてでも述べましたが、スペイン語の定冠詞のルーツはラテン語の指示詞
ille(男性形)、
illa(女性形)、
illud (中性形)(以下代表して
ille)ということで、「正確なコミュニケーションに必要だから生まれた」と書いていますが、実際はそんなに単純な話ではありません。
つまり、「定冠詞が必要なので、ラテン語の指示詞
ille をもとに作ってみました。これからはこの冠詞を使いましょう」というようなことではないわけです。言語というものは、人々が使いながら長い年月をかけて発展します。その変化は、社会構造や教育システムなどいろんな要素がからみあって、結果的にこうなったとしか言えません。それだけに、冠詞の用法も複雑でわかりにくいのです。
もちろん、歴史を知ったからといってすぐに「定冠詞の使い方がわかる」というわけではありません。しかし、その変遷を知ることで、背景にある人々の発想や考え方に触れることができます。それを感覚的につかむことで、「どこを割り切ってそのまま覚えるか、どこに感覚を働かせるか」といったようなコツがつかめてくるはずです。いろんな用法で混沌とした定冠詞の世界をすっきりと整理することができるからです。
ということで、さっそく定冠詞の歴史を深めてみたいと思います。
ラテン語には冠詞がなかった
スペイン語は、フランス語などとともに
ロマンス語と呼ばれ、ラテン語をルーツとする言語です。しかし、そのラテン語には冠詞はなかったのです。ラテン語になかった冠詞がどうやって突然スペイン語に登場したのか――と思うかもしれませんが、冠詞はある日突然現れたものではありません。上でも書きましたが、言語の現象は長い年月をかけて形成されるもので、ある日突然現れるなどということはないのです。
まず、最初におさえておきたいのは、厳密に言うと、スペイン語などのロマンス語のルーツは「ラテン語」というよりも「俗ラテン語」だということです。
「どう違うんだ?」ということになりますが、普通「ラテン語」というと「古典ラテン語」を指します。いわゆる「書き言葉」としてのラテン語で、キケロなどの学者が使っていた高尚なラテン語のことです。それに比べて「俗ラテン語」というのは「話し言葉」としてのラテン語です。話し言葉は記録に残らないため、文献としての資料が乏しく詳しいところまではわかりませんが、この「俗ラテン語」は、「古典ラテン語」と比べると大きな違いがあったようです。最初は共通点も多かったはずですが、どうしても話し言葉は乱れますが、書き言葉は推敲を重ねながら正しい表現を維持しようとするため、両者の間に違いが出てきます。
社会的背景も無視できません。ラテン語といえば、当時は泣く子も黙る「ローマ帝国(その前は共和政)」の言語です。どんどん領土を拡大していくうちに、新しく支配された土地の人々もラテン語を使うようになるのですが、教育システムも充実しているとは言えず、なかなか正しいラテン語は使えません。ましてや、一般の人々の話し言葉となると、目が届かないだけに、どんな言葉を使っているかわかったもんじゃありませんね。
話し言葉は乱れに乱れ、その土地独特の特徴なども取り込みながら、正規ラテン語からははるかにかけ離れた言語を話すようになるわけです。そのうち、書き言葉にもその影響が現れてきて、「これではいかん!」と乱れたラテン語を修正しようという動きもみられます。こうして、書き言葉である「古典ラテン語」と話し言葉である「俗ラテン語」との溝はますます広がっていったのです。
ということで、スペイン語をはじめとするロマンス語は、話し言葉である「俗ラテン語」から生まれたのです。
冠詞はいつ生まれたのか?
では、スペイン語の定冠詞はどの時点で生まれたのでしょうか?前述のように、俗ラテン語は話し言葉であるため、正確な時期を特定することはできませんが、俗ラテン語が「ロマンス語」として認識されるようになった7世紀には、すでに冠詞は定着していたようです(ただし、俗ラテン語が「ロマンス語」に発展した時期はさだかではなく、紀元前1世紀ごろだという説もあります)。
8世紀以降になってようやくロマンス語で書かれた文書が登場します。ロマンス語から発展した古フランス語で書かれた文書もいくつか残っています。それらを見ても、現在の定冠詞に比べると成熟しているとは言えませんが、定冠詞の用例が多くみられます。書き言葉は話し言葉に比べると正しい文章を書こうとするため、文書に見られる言語の特徴や現象は、口語ではすでにかなり前から起きているということが言えるでしょう。ちなみに、スペイン語では、12世紀に書かれた
El Cantar de mio Cid(外部サイトへ飛びます) が現存する最古の文書ですが、定冠詞がふんだんに使われています。
冠詞が生まれた背景
では、ラテン語になかった冠詞が、なぜ俗ラテン語→ロマンス語と変遷していくなかで生まれてきたのかですね。日本人としては、冠詞がなければ言語習得もずいぶんラクになるというものです。それはともかく、そもそもなぜラテン語には冠詞がなかったのかというと、日本語でもそうですが、あえて必要としなかったからに他なりません。
というのも、ラテン語はゲルマン語などと同様に、名詞の格変化があったためパズルのようにお互いの言葉がしっかりと織り合わされ、簡潔で無駄のない文章表現ができたからです。1つの名詞の形だけで、主語は何なのか、単数複数、名詞の性別、他の名詞との関係といった情報がわかります。だから冠詞などというものは必要なかったのです。冠詞の入る余地がなかったとも言えるでしょう。
しかし、新しくローマの支配下に入った人々がこの厳密な言語をマスターするのはかなり難しかったはずです。満足な教育システムもなく、教える教師も正しいラテン語を教えていたかも疑わしいものがあります。その結果、俗ラテン語では、古典ラテン語にあった名詞の格変化もなくなり簡略化してきました。指示詞の使い分けも複雑だったため、用法が乱れ、その間違った用法が定冠詞の登場へとつながっていった部分もあるようです。また、直接の因果関係はさだかではありませんが、格変化がなくなり、意味が取りにくくなったため、定冠詞がそれを補う役割を果たしていたのかもしれません。
こうして、いくつかのラテン語の指示詞のなかから
ille が定冠詞となり、繰り返し使われていくことで用法が拡大し、ルール化が起こっていきます。これはスペイン語だけでなく、英語を含むあらゆる言語における一般的な傾向ですが、実は定冠詞には「ライフサイクル」があるのです。では、その「
定冠詞のライフサイクル」について見てみましょう。