定冠詞のライフサイクル
定冠詞にはライフサイクルがあるという考え方を提唱したのは、アメリカの文法学者、ジョーゼフ・ハロルド・グリーンバーグ(Joseph Harold Greenberg)です。定冠詞が生まれる前の段階を
Stage 0 として、定冠詞になった
Stage 1 からさらに
Stage 2 になり、最後の
Stage 3 では「名詞のマーカー的存在」になるという考え方です。
その考えかたに基づいて、考察を進めると次の図のようにまとめることができます。
簡単に各ステージを説明してみましょう。
Stage 0
まず、これは冠詞を持つほとんどの言語がそうですが、定冠詞は「それ、あれ」という意味の指示詞 (
demostrativo) から生まれています。同じ指示詞でも、「これ」(英語では this)という近くのものを表す指示詞ではなく、「あれ」(英語では that)という遠くを表す指示詞であることがポイントです。スペイン語でもラテン語の遠称指示詞 (
demostrativo distal) である
ille が語源です。
では、その遠称指示詞である
ille がどのようにして定冠詞になったのか――つまり、
Stage 0 から
Stage 1 になったのかというと、一言で言えば、「ほら、
あれをみてごらん」というときの直接的・物理的な「指さし」の用法から「居間にある
あの雑誌を取ってきて」とか「この前おっしゃってた
あの件ですね」といった間接的・観念的な「参照」に変わっていったことが大きなポイントです。つまり、実際に「あれ」と指さすような「現在目に見える」対象だけではなく、直接物理的には目に見えないが、
共通の知識フレームを用いることで「何を指しているかがわかる」ものを参照するようになったことです。
そういった用法がだんだんと広がり、「本を買った。
その本は…」というふうに、すでに登場した名詞をアナフォリック的に参照(前方照応)する用法にも拡大していったわけです。こうして、「あれ」という指示的な意味がだんだん薄れていき、発音的にも弱くなり、定冠詞へと発展していきます。
とは言え、ここまでが「指示詞」(
Stage 0)でここからが「定冠詞」(
Stage 1)だという明確な線引きはできません。後から分析した結果、現代の定冠詞のような用法が文法化(ルールとして確立)してきたのはだいたい「いつごろ」と言うしかないわけです。ましてや、昔は読み書きができる人も少ないので、文献として残されたものはわずかしかありません。つまり、結果として、「何世紀の文献ではすでに定冠詞が使われていた」、「こういう用法があった」などとしか言えないわけです。ちなみに、話し言葉で定冠詞が登場したのは、だいたい3世紀から8世紀の間だろうとされています。
Stage 1
指示詞から定冠詞が誕生した段階が
Stage 1 です。このステージでの定冠詞の役割は、要約すれば「特定の名詞を限定する」ということで、
Definite つまり「何を指しているかが相手にも明確にわかる名詞」につくということです。話し手聞き手の共通の枠組みは
Stage 0 ほど明確ではありませんが、共通の知識や認識、文化的な脈絡などを駆使することで、話し手が示すものを聞き手が「これだ」と特定できるものに定冠詞が使われます。また、地球からみた太陽や月など、唯一のものに使われるという「唯一限定」的な使われ方もこのステージの特徴だと言えるでしょう。
Stage 2
次に、このステージは
Stage 1 と
Stage 3 の間の段階と位置づけされます。ここでは、最初の
話し手にも聞き手にも明確な唯一のものを特定するという役割がだんだん弱まってきて、
Specific つまり「他と区別する特定の名詞」についても定冠詞が使われるようになり、「特定の名詞ではあるが唯一これと限定しない」用法も含まれてきます。聞き手にとって「どの名詞か」ということが明確になっている必要もなく、「そういう名詞があるんだ」という理解で十分だと言い換えることもできます。いずれにしろ、このステージでは、ほとんどの名詞に定冠詞がつくようになり、つかないほうがめずらしくなってくるため、文法のルールも「つかない場合」の説明をするようになってくると考えられます。それでもまだ、定冠詞がつくということは「特定する」という機能が残されている状態です。
Stage 3
こうして、
Stage 2 が進んでくると 、名詞を「限定・特定する」という役割も失われ、
General つまり「その名詞が表すものならどれでもいい」という一般的な用法になります。「この名詞は単数か複数か」あるいは「男性名詞か女性名詞か」という名詞の属性のみを表すマーカーになるのです。こうして、「特定の名詞を限定(参照)する」という冠詞本来の役割を終えることになり、それを補う現象や新しい冠詞が登場することもあります。
以上のように、最初は「ユニークに特定できるもの」だけに使われていた定冠詞も、繰り返し使われるうちにだんだんルーチン化してきます。ルーチン化してくることによって、単なるルールとしての使い方も定着してきますし、当初にはなかった用例も追加されることになり、用途が広がっていくわけです。
ちなみに、スペイン語はこの3つのステージのどの段階にあるかというと、他の
ロマンス語や英語もそうですが、まだ
Stage 1 にあります。では、「
Stage 1 の特徴」で、その
Stage 1 にある定冠詞にはどんな特徴があるのかをもう少し詳しく見てみましょう。