原文がどう変わるのか?このページでの説明は、「翻訳」としての観点よりも「ライティング」としての観点を重視される方であれば必要ありませんが、原文からどこまで離れるのかが気になる方のために設けています。「通弁」クリエイティブ・ライティングとは?で説明しているように、原文と翻訳先言語の1対1の対応ではなく、「丸ごととらえて直接ライティング」する方法では、原文の微細な要素をすべてそのまま翻訳先ライティング内に表現することには限界があります。文章の構造的に不可能であったり、言語・文化的にフィットしなかったり、それを形として表現しなくても十分に読み取れる場合などがあるからです。 そこでここでは、具体的に原文のどういう箇所がどのようになるのかという例を挙げてみたいと思います。 より最適だと思われる単語や表現に置き換えられる原文の単語などが違う言葉に置き換わることがあります。ここの「違う」というのは、たとえば、その5:日本人は「統一」が好き?(日→英)の例文では、「これまでの『常識』では考えられない『まさか!』と思うことが起きる」を「 同様に同じ例文で、最後のほうの「声を大にして叫びたいのです」という箇所の「叫ぶ」は 翻訳先言語では省略可能な細かい部分が省略されるメインの情報ではなく、枝葉の部分が省略されることがあります。たとえば、「~と言うことができます」とか「~と思われます、と思います」といった日本語ならではの「ぼかし表現」も英語では断言したほうがいい場合があります。その他、「言ってみれば」とか「どちらかと言うと」といったつなぎ言葉的な表現などもそうです。1つのセンテンスにいろんな単語を入れすぎると、それだけキーワードとなる重要な単語(SEOのキーワードではありません)や文章全体のパワーが弱まってしまうのです。そういう意味でも、できるだけ余計なものを切りおとし、すっきりさせてやったほうが効果的なのです。盆栽と同じです。 ちなみに、実際にこういうことがありました。原文では「5つほど例を挙げます」という表現になっていたのですが、英文では「5つ」と表現したところ、クライアントさんから「5つほど」の「ほど」も訳して欲しいと言われてことがあります。こういう場合も、実際には5つしか挙がっていないので「5つ」で十分だと思います。数の概念の正確さが必要される技術的な文書でもなく、話者の性格描写が必要される小説でもないわけですから、「ほど」を表現する意味がないのです。 とは言え、世の中にはいろんな考え方もあります。そういった細かいところまで気になるという方は、多少不自然であっても、読み物としての完成度が低くても、「通常の翻訳」のほうをお勧めします。 文章が分割されたり統合されたりする(文章の数が変わる)原文の文章は2つなのに翻訳先では1つに統合されたり、逆に1つなのに2つに分割されたりすることがあります。これは、ライティングとしてのメリハリを持たせ、読みやすく、退屈させない工夫です。短い文章が続きすぎても「ぶつ切れ」の感があり、長すぎれば冗長になったり、文章構造が複雑になったりして読みにくくなります。その5:日本人は「統一」が好き?(日→英)の「翻訳に基づいたライティング例」では最初の2つの文章が1つになっています。それに続く文章も短いため、「ぶつ切れ」状態になって単調にならないようメリハリをつけているわけです。 文章・パラグラフ構成や順番が入れ替わっている(全面的な再構築)その6:ワンパターンあいさつ文の退屈な翻訳(日→英)の「翻訳に基づいたライティング例」がそうですが、原文どおりのパラグラフ・文章構成では「ロジックの流れ」も確立されていないため、英語にした場合、何が言いたいのかというポイントがはっきりしません。原文自体が「とりあえず社長のあいさつは入れておきましょう」といったスタンスの場合、ロジックがどうのとか、とくに何かをアピールするとか、そういうことは狙っていないという背景もあるかもしれませんが、せっかく掲載するのなら、もっと具体的な何かを語りたいものです。 そういうことから というロジックの流れを作り、そこに原文の具体的なメッセージで肉付けしているわけです。 もちろん、原文のままの普通の翻訳であっても、そのメッセージやロジックは読み取れないことはありません。しかし、そのためのブレインワークが必要になります。おもしろい文学作品でもなく、読まなくてならないものでもない読み物に対して、一般読者がそれほどの労力と時間をかけてくれるとはとても思えません。だから、単純明快にする必要があるのです。 ここで挙げた以外にもいろんな場合がありますが、それはあくまでも、ライティングという1つの作品として仕上げるための最適化やアダプテーションの部分であり、それによって、原文のエッセンスを翻訳先言語においてより効果的に表現しようとする試みなのです。 |