再帰的受身
「行動主」がわからない場合やあいまいにしたい場合に使われるのが、三人称の
再帰代名詞 se を使った再帰的受身です。上の迂言的受身との対比で考えると、「行動主」と「受動主」の重み付けを逆転させるというよりも、「受動主」を強調し、「行動主」の存在は「問題にしない、どうでもいい、言う必要もない」といった心理が働いています。
Aquí se venden libros.
(ここでは本が売られている。)
Se habla español en el país.
(その国ではスペイン語が話されている。)
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つまり、「本が販売されている」や「スペイン語が話されている」ことが大事なのであって、誰が売っているか、話しているかというのは店員であり、人々であり、概念的に推測できる対象であるとも言えますし、男性か女性か、若いのか年配なのか、といったようなことはどうでもいい、あるいは不明だということでもあります。律儀に能動態で表現するまでもなく、ざっくり、あいまいに表現できる便利な用法だとも言えるでしょう。
また、再帰的受身では、英語の
...given by him のように「~によって」(
por él) などと行為者を表現しないのが普通です。そもそも再帰的受身とは、行動主をぼかすために使用するものであるため、わざわざぼかしたものを表現する必要はないわけです。もっとも、実際には、まったく行為者を言及した事例がないということではありませんが、こういった用法は適切でないとする考え方もあります。
ところで、再帰的受身を使用するうえで注意すべきことは、
スペイン語の受動態の考え方の
もうひとつの受身形でも述べていますが、この用法が使えるのは、主語になる受動主が
三人称のみ
物(非人間)のみ
という制限があり、「人間」を主語にした受身表現はできません。それは、再帰代名詞の
se を使った用例が他にもあり、そういった用例と混同されてしまう恐れがあるからです。
Él se criticó mucho.
(彼は自分自身をひどく批判した。)
Los profesores se respetan mucho.
(教師たちはお互いにとても尊敬し合っている。)
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上の例文では、「自分自身を~する」という再帰的な意味になり、下の例文では、「お互いに~する」という意味になってしまいます。こういった理由から、「人間」を主語にはしないというルールがあるのです。
しかしながら、人間を主語にした受身的なニュアンスが表現できないというわけではありません。あくまでも、文法の形(公式)として、1つの決まったパターンに集約できないということで、以下のような表現方法があります。
三人称の再帰代名詞 se を使った無人称表現
行動主を言及せず、三人称複数形動詞を使って能動態として表現
例を挙げてみると、
Se criticó mucho a Juan.
(ホアンはひどく批判された。)―se を使った無人称表現
Se trató a los heridos inmediatamente.
(負傷者はただちに手当てされた。)―se を使った無人称表現
Me robaron la cartera en la calle.
(私は通りで財布を盗まれた。)―三人称複数形を使った能動表現
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最初の例文と二番目の例文は、無人称の se を使った用法で、最後は、三人称複数形動詞を使った能動態であり、受身形としての形式ではありません。特に最後の例文は、形としては能動態なのですが、あえて「誰が盗んだか」という行動主を表現しないことによって、「私」
Me) に焦点を移すことができ、受身に近いニュアンスを表すことができるわけです。
無人称の
se を使った用法では、人称目的語を表す「
a」がつきます。また、動詞は必ず三人称単数となりますので、再帰的受身のように、数の一致がありませんので注意が必要です。
もっとも顕著な例として、以下の例文を見てみましょう。
Se venden libros.
(本が売られている。)― 再帰的受身
Se vende libros.
(本が売られている。)― se を使った無人称表現
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上の例文では、複数である本 (
libros) と、動詞 (
venden) が数の一致をしていますので、受身であるということが言えますが、下の例文では「本」は複数ですが、と動詞 (
vende) は単数になっており、数の一致がありません。これは、受身ではなく、
se を使った無人称表現だと見分けることができます。ただし、下の例文のような内容の場合、まぎらわしいため、わざわざ
se を使った無人称表現を使わず、再帰的受身として、きちんと数の一致をさせて表現するのが望ましいでしょう。
いずれにしろ、
スペイン語の受動態の考え方の
歴史的考察でも述べていますが、スペイン語では、「能動態か vs 能動態でないか」という観点のほうが理解しやすいと思いますので、文法的な探求をしたいというのでなければ、受身か無人称かといった分類にこだわる必要もないでしょう。「視点が行動主からそれている」というだけの話で、「本を売っている」も「本が売られている」も情報としての意味は同じです。それが受身であるかないかというのは、文法学という学問における問題であり、実際のコミュニケーションとしてはさして影響がないと言えるでしょう。