ローマ勢力の台頭
こうして、鉄器時代 (the Iron Age) のブリテン諸島には、ケルト人 (Celts) のもたらしたハルシュタット文化 (Hallstatt culture) やラ・テーヌ文化 (La Tène culture) が花開き、ヨーロッパ大陸との交易がさかんに行われるようになります。人々はインド・ヨーロッパ語 (Indo-European language) から発展したケルト語 (Celtic languages) を話し、紀元前1世紀になると、グレートブリテンの人口も3、4百万人を数えるようになりました。
しかし、こういったケルト社会の繁栄もだんだん衰退していくことになります。紀元前509年に王政ローマを滅ぼし設立された共和政ローマが、イタリア半島を統一し、地中海全域を支配する大勢力になっていたのです。
紀元前55~54年、当時ガリア地方 (Gaul) を攻略していたジュリアス・シーザー (Julius Caesar) の侵攻を皮切りに、ブリテン島の人々は、幾度となくローマの攻撃に悩まされるようになります。紀元前27年にローマ帝国 (the Roman Empire) となったローマは、43年にグレートブリテン島の南部地域をブリタンニア (Britannia) 地方として併合、ケルト人の女王ブーディカ (Boudica) をはじめ現地の部族は激しい抵抗を続けますが、ローマの支配は次第に拡大していきました。
一方、紀元1世紀から2世紀ごろになると、「キリスト教」が伝わって来ます。アイルランドやスコットランドから伝播したルートとローマからのルートの2種類がありますが、後にローマのルートが正式なものとして採用されました。
こうして、ブリテン島のローマ化が進みますが、現在のスコットランドにあたる北部の地域だけは完全に支配することはできませんでした。そして、4世紀になると、中央アジアの騎馬遊牧民であるフン族 (Huns) の侵入が引き金となり、ゲルマン民族大移動 (Migration Period; Barbarian Invasion) が始まります。すでに、境界地域のゲルマン人やケルト人の統制に頭を悩ませていたローマは、西ゴート族 (Visigoths) によるローマ略奪 (Sack of Rome) と同じ年の410年、ついにブリテン島から撤退します。
ゲルマン民族の到来
ローマ人の撤退に乗じてこの地にやってきたのが、ゲルマン民族 (Germanic peoples) の一派であるサクソン人 (Saxons) です。同じゲルマン民族であり、隣接する地域に住んでいたアングル人 (Angles)、ジュート人 (Jutes) も、このイギリス侵略に加わりました。その後、これらの民族はお互い同化や統合を行い、一部の先住民族も吸収しながら、アングロ・サクソン人 (Anglo-Saxons) という部族を構成するようになります。ちなみにイングランド、イングリッシュという呼び名はそれぞれ「アングル人の国」「アングル人の言葉」という意味が語源です。
また、アングロ・サクソン人の侵略と時を同じくして、北部(現在の北アイルランド)からはケルト人の一派であるスコッツ人 (Scots) が移り住むようになったことで、先住のブリトン人 (Britons) は圧迫され分散していきます。現在のブルターニュ (Brittany) や スペインのガリシア地方 (Galicia) に逃れていく人々や新しい土地で王国を建てる部族もありましたが、彼らの王国は次々に征服・併合されていきます。
鉄器時代からブリトン島やヨーロッパ各地で栄華を極めたケルト民族、それに続くローマの支配も衰退し、ゲルマン民族という勢力が台頭するとともに、ヨーロッパの歴史は古代から中世へと展開していきます。それまでブリテン島で話されていたケルト語に代わって、ゲルマン語の分派である英語の時代へと入っていきます。
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