「クリエイティブ翻訳」とかけて (2)

「クリエイティブ翻訳」とかけて、日本のものづくりと解きます。

―その心は?

摺(す)り合わせ型の翻訳ライティングです。

それに対して、部品やモジュールのように、単語や文章単位で置き換えていくのが直訳や表面的な翻訳と言えるでしょう。そこには、組み合わせた単語同士がしっくりと来るか、文章間のつながりはスムーズに流れているか、文書全体の完成度はどうなのか、といった摺り合わせがありません。とは言え、意味的にも何となく通じるかもしれないし、安価に上がるのも事実です。

今は厳しい時代です。

産業分野においても、より安い労働力を求めて、国内の生産拠点の海外シフトが続いています。

そして、こういった厳しい時代には、人々は物質的なゆとりとともに、感性のゆとりも失ってしまいがちです。

電化製品売り場には、日本のブランド名でありながら、いかにも無理やりはめ込んだようなボタンやカバー、見た目にもわかるようなズレや隙間、ボタンを押すとおもちゃのような音がしてドアが開く… といったおよそ「日本のものづくり」とは思えないような製品が並ぶようになりました。用を足せばいい、安ければいいという実用性や功利性が追求され、ものとしての完成度、使い心地といった感性的な部分はもはや「ぜいたくな要素」のようです。

細かくチューニングされた個と全体の調和や使い心地といった要素は、摺り合わせならではの「ものづくり」です。そして、単なる日常的な道具であっても、そういった要素を楽しめるということは感性のゆとりを持っていること。それは、良いものは良いということを認めることかもしれません。

きれいごとを言っていられる時代ではないかもしれません。しかし、市場は、いつまで、こういった味気ない製造物に満足しているのか―というと疑問です。むしろ、現状にあっても、感性の遊びが楽しめないモノに心から満足している人が果たしてどれだけいるのでしょうか。

高額であればいいというのではありません。完成度の高いものづくりのために、当たり前のようにかかるコストは当たり前のように払ってもいいという人もいると思うのです。そのコストは感性のゆとりへの投資です。

保障期間以内に何度も故障し、そのたびに新品と交換してもらうために販売店に足を運ばなければならない。たとえ物理的な時間がたっぷりあったとしても、その時間と手間は、自分のゆとり感をどんどん食いつぶしているものでしかないという気がしています。
逆に、物理的なゆとりがないからこそ失いたくないもの―それが感性のゆとりですね。

「クリエイティブ翻訳」とかけて (1)

「クリエイティブ翻訳」とかけて、粒入りジュースと解きます。

―その心は?

よく振ってから翻訳します。

ジュースに限りませんが、液体中に含まれた微粒子や固体物は、その重力によって底に沈殿します。一見した限りでは、水面は透明感があり、穏やかですが、撹拌(かくはん)することで底の沈殿物が浮上し、液全体が濁ってきます。飲み物であれば味も異なってきます。

よく振って飲む―これが粒入りジュースの楽しみ方です。

これを翻訳にたとえると、直訳や表面的な翻訳というのは、撹拌する前の、静的で薄い水面だけを処理することだと思うのです。

ところが、底にたまっている内容物は大切な栄養分であったり、液体全体の色や味を決定する要素であることも多いものです。

ですから、水面から見えるものだけを表現したのでは、本当に大切なものが伝わらないことになってしまいます。だからこそ、全体をよく振って、吟味してから文章表現することが大切だと思うのです。

とくに、直接的な表現を嫌う日本語には、こういった傾向が強いと思います。表面はさらっと穏やかに見せながら、実は言いたいことが水面下に隠されている、そこに「あうん」や「ツーカー」の意思疎通が成り立っているのではないかと思います。わざわざ振って見せなくても、相手が勝手に振って味わってくれる、日本古来の「粋」な精神だったのです。

でも、これは英語を使ったコミュニケーションでは通用しません。振ってやらなければわからない、それが西洋の意思疎通の方法だと思うのです。

つまり、日本語は沈殿した粒入りジュースなら、英語は撹拌した状態の粒入りジュースだということです。

そして、撹拌させたり、沈殿させたりして、調整しながら、読者が楽しめる状態に表現しなおすこと、
―それが「クリエイティブ翻訳」だと考えています。

なるほど機械翻訳

直訳や迷訳となると、やはり人間は機械翻訳には勝てません。

もっとも、直訳や迷訳をわざわざ使おうとする人もいないとは思いますが、コスト削減のために格安の翻訳を求めようとする傾向はあるようです(私には残念ながら提供することはできませんが)。

そう言えば、かって、どこかの求人コーナーに、機械翻訳で上がってきた文章をリライトする人材を求めていました。それを見て、一部の翻訳会社で、自動翻訳ソフトを使ってまず機械が翻訳→人間が一斉にリライト、後ろではストップウォッチを持った監督がリライト時間を計っている―といった噂を耳にしたことがありますが、あの噂は本当だったのだと思ったものです。

とは言え、私も実際、自動翻訳ソフトをあまり活用したことがないので、どんなものか試してみることにしました(もちろん、お仕事には使いません)。ただし、わざわざ購入するのもムダなので、無料のオンライン自動翻訳ソフトを使いました。

ちなみに原文はこれです。

There are some people who seldom read translated literature. The reason is simple, as they know most of translated books are not written in natural Japanese, there is no guarantee that they can enjoy reading. While reading, they may have to occasionally stop and feel, with a disappointing sigh, “Ah, this is not the Japanese!” This is, of course, far from an exciting reading experience.

(正しい意味:翻訳本はめったに読まないという人がいる。理由は簡単で、自然な日本語で書かれていないものがほとんどだからである。したがって、読書を楽しめるという保証がない。読んでいるうちに何度も引っかかり、「こんなの日本語じゃない」とがっかりしてため息が出る、これでは読書を楽しめるとは言えないのだ)

まず、海外のオンライン自動翻訳ソフトではこうなります。

「whoはめったにない人々には、いくつかの翻訳文学を読む。その理由は、簡単で、ほとんどの翻訳として書籍を知っていない自然な日本語で書かれて、その保証はないが読書を楽しむことができます。読みながら、彼らを停止し、 5月に時折感じる、失望とため息をつく、 ‘ああ、これではない、日本の! ‘これは、もちろん、はるかにエキサイティングな読書体験からです。」

すごいですね。

whoとは文字通り、一体「誰?」ということになってしまいます。しかも、「5月に時折感じる、失望」(5月のMayと助動詞のmayの取り違え)というのは、いわゆる「五月病」のことでしょうか。確かに、この訳文は、「エキサイティングな読書体験」です。

次に、日本のオンライン自動翻訳ソフトです。

「翻訳された文学をあまり読まない一部の人々が、います。理由は単純です、彼らが大部分の翻訳された本が自然の日本語で書かれないということを知っているように、彼らが読んで楽しむことができるという保証がありません。読んでいる間、彼らは時折立ち止まらなければならないかもしれなくて、感じなければならないかもしれません、期待外れのため息をついて、「ああ、これは日本人でありません!」、Thisは、もちろん、刺激的な読書経験から遠いです」

さすがに日本のソフトだけあって、頑張っていますね。これなら、人間がちょっと手を加えると意味は通じます。ウチはコスト最優先、こんなもんで十分、という方にはおススメかもしれません。有料ソフトならさらに良いかもしれません。

そこで、同じ日本の翻訳ソフトに別のセンテンスをやらせてみました。

Like its paragraphing rule, the Japanese language sometimes employs completely different reasoning styles.
(正しい意味:段落分けについてもそうだが、日本語はまったく異なる理論を使用する言語である。)

「そのparagraphingのようなルールを、時には、日本の言語推論の従業員を完全に異なるスタイルです。」

今度はちょっとイケテませんね。しかも、employsをemployee「従業員」と間違えていたりで、もう少し勉強して欲しいという不満が残りますね。

ちなみに、先の海外のオンライン翻訳ソフトに同じ文章を翻訳させてみました。

「それが支配を節に分けるのが好きにしてください、日本語は時々完全に異なる推理のスタイルを使用します。」

いやあ、もう、好きに訳してください、という気になりますね。
ということで、今回は自動翻訳ソフトの話でした。

日本人は「統一」が好き?

「めんどくさいから私もキツネうどんで…」
「じゃあ、全員キツネうどんで。すいません、キツネ5つください」

ということで、極端な例ですが、ここでの「統一」とは、「同一化」するという意味です。
赤信号もみんなで渡れば怖くないし、何事にも人と同じことをやっていればリスクも同じ、成功報酬も等しいということになり、「同一」であることには、(自分自身も含めて)日本人にとって安心感や心地よさがあります。

また、きれいに並んで揃っている、統一されているということは、日本人特有の「美意識」なのかもしれません。

ちなみに、そういった「統一志向」が文章表現の好みとして現れている場合も多々あります。

もちろん、全体的なバランスがありますので、表現レベルやスタイルの統一は必要です。ところが、なかには、文章の構造や使用する動詞なども統一したくなることがあります。

同じような文章が繰り返し出現することの多いマニュアルなどによく見られる例ですが、
たとえば、「画面が表示されます」という日本語に対して、

英語訳①:”The screen is displayed.”
英語訳②:”The screen will be shown.”

というふうに、ある箇所では英語訳①が使われ、別の箇所では②が使われているというような場合です。

日本語は同じなので、英訳もどちらか1つに統一したいという考え方が起きてくるのです。翻訳メモリなどで、日英の対比を1対1にしておきたいという場合もあります。しかし、こういった単語レベルの統一というのは、どうもそれほど重要な問題ではないような気がします。

また、マニュアルでは、たいてい各章の概要を一覧で説明したページが最初に来ます。
例)(○○の部分だけが変わります)

第1章 この章では○○について説明します。
第2章 この章では○○について説明します。
第3章 この章では○○について説明します。
(以下略)

と同じ構造の文章が並ぶのです。「説明」という同じ単語を使っているのも特徴で、「ご紹介します」などというバリエーションは認めないという考え方もあるようです。日本語版なら、このままでも特に問題はないでしょう。

ところが、英語表現でもこれを踏襲して、すべての該当箇所に対して、

Chapter 1: This chapter explains…
Chapter 2: This chapter explains…
Chapter 3: This chapter explains…
(以下略)

として欲しいという要望をいただくこともあります。もちろん、This chapter describes…やThis chapter outlines (details)…といったバリエーションは許されません。

なるほど、視覚的にはみんながきちんと揃っていて、(日本人としては)気持ちの良いものがありますね。

しかし、英語圏の人たちの感覚では決してそうではありません。あまりにも作為的で不自然さを感じるのではないでしょうか。むしろ、同義語を使って表現に変化をつける、三番目の文章になると、態も変えて、”… are explained in the chapter.”などとメリハリをつけるのが自然だと思うのです。また、内容によっては、無理に型どおりの表現に当てはめると不自然な文章になる場合もあります。

こう言うと、「マニュアルなんだからそんな技巧は不要だ」といった意見が返ってくる場合もあります。

個人的には、こういったレベルのものは「技巧」というよりも、読んでいて疲れない、読みやすいライティングを作成するための、ごく当たり前の「工夫」であると考えています。

デザインの白場スペースはタダ?

「ここ、スペースが空いてますね。もったいないからこの情報入れてください」
「え、でも、ここに何か入れると窮屈でゴチャゴチャした感じになってしまいます」
「何も入っていない白場のスペースにお金は払えません。入れないんだったらこの分の料金、引いてください」

極端な例ですが、パンフレットなどの印刷物を作っていると、たまにこのようなことを言われるお客さんがいらっしゃるとか。

「ですから、この白場も含めて、デザインなんです」
「デザインって、ここの、形や色がついている画像の部分だけでしょう?白場はもともとそこにあるもんだし、あなたがデザインしたものじゃないでしょう?」

どこの企業でもコストダウンが叫ばれるようになって久しいのですが、なんとかして少しでもコストを減らそう、有効に使おうという気持ちもよくわかります。しかし、白場をいかに効果的に使うかというのもデザインの一部です。

もっとも、あくまでも「効果的に」というのが重要で、1ページの左上にちょこっと小さな画像オブジェクトが入っているだけで、残りはすべて空きスペース、これで白場もデザインですというのはムリがあります(実際にこんなデザイナーもいないとは思います)が、ページ全体のバランスという意味で白場は不可欠です。

さらに言うならば、ヘッドラインや本文コピーなども視覚的にはデザインの一部であり、やはり、「白場」というものを考慮して作成・調整する必要があるのです。

そして、英文版を作成する場合、たいてい日本語版と同じデザインレイアウトを使用します。そこで大切なのが、いかにオリジナルの日本語版のデザインを損なわないかということです。それは、言い換えれば、元のデザインの白場をいかに損なわないかということに他なりません。

ところが、原文の日本語を英語に翻訳した時点で文章が長くなってしまうのが普通です。そして、レイアウトをしているデザイナーがやってきて、
「このキャッチ、日本では1行で収まっているのに、英語では3行になってるんで入りません」

となります。ここで、

「じゃ、文字小さくして長体かけてください」
「そうすると小さな文字になって、もうキャッチとは言えません」

といったやり取りが展開されるわけですが、やはり、物事には限度というものがあります。ここで必要になってくるのが、日本語に近い長さになるような表現の調整。と言うよりも、最初から「キャッチはキャッチとして」、「本文は本文として」、レイアウトをイメージしながら翻訳ライティングを進めていくことが不可欠だと考えています。

この辺のところは、「通弁」ホームページで説明しています。
https://www.rondely.com/tuben/Process2.htm

そして、言語のオーラ

それぞれの言葉にオーラがあるように、言語にも独特の雰囲気があります。

たとえば、よく引き合いに出されるのが、神聖ローマ帝国のカール5世(スペインのカルロス1世)の次の言葉。

“I speak Spanish to God, Italian to women, French to men, and German to my horse. ”
(神に話しかけるときはスペイン語、女性と話すときはイタリア語、男性にはフランス語、ドイツ語は馬に対して使う)

また、誰が言ったかは不明のようですが、次のようなバージョンもあります。

“French is the language of love. English is the language of business. German is the language of war. And Spanish is the language to speak to God.”
(フランス語は愛を語る言語で、英語はビジネスの言葉。ドイツ語は戦争用の言葉で、スペイン語は神に語りかける言語である)

一昔前に流行ったフランス語もどきのジョークで、「フランス語でイカのことを何と言う?」「アシジュポン」とか、「じゃあ、お坊さんは?」「ジュズモテボンサン」などというのがありましたが、フランス語というのは、「ジュ」だの、鼻音の「ポン」や「サン」など、どことなく篭(こも)っていて、小声で「ささやく」のに適しているような雰囲気がありますね。そんなところから、愛を語り合う言語と言うのかもしれません。カール5世は、「男性に対して使う」と言っていますが、フランス語が公の場で使用されていたといった時代背景と関係がありそうです。

また、ドイツ語は、音のイメージからしても強そうで勇ましいイメージがあり、イタリア語は「ピッコロ」など小さな「ッ」のような軽快な音と「セニョリーナ」のような大らかな母音の響きが音楽を感じさせます。

スペイン語はイタリア語とは良く似た言語です。イタリア語同様、子音の後に母音が来る組み合わせが多いため、大らかな音の響きや安定感があります。しかし、軽快さやメロディーをかなでるような抑揚は少なく(特にスペインのスペイン語)、どことなく厳かな雰囲気を感じさせます。

英語は、本来はドイツ語と同源だった言語ですが、時代とともに、ドイツ語の複雑なルールをそぎ取り、フランス語などの影響も受けながら、現代風の合理的な言語として発達してきたと言えます。

このような「音」や「リズム」から受ける雰囲気もありますが、言語とは使われてこそ言語であり、文化や歴史の裏づけのない言語は生きたものとは言えません。それぞれの言語が経験してきた歴史、作り上げて来た文化というものも加味されて、言語としてのオーラが形成されるのだと考えています。

最後に、日本語はどんな言語かと言うと、個人的な見解ですが、カール5世風に表現すると、

「日本語とは、しゃべりたくないときに使う言語である。」

と言えるかもしれません。

歴史のなかで切磋琢磨されてきた「雄弁」のヨーロッパの言語と、「あうん」の呼吸で「沈黙は金」を実践してきた日本語とは、大きな違いがあると思います。その辺のところは、「通弁」ホームページで説明しています。

https://www.rondely.com/tuben/main_msg4.htm

言葉のオーラと翻訳

翻訳とは意味だけではなく、同時に言葉の「オーラ」を伝えることだと考えています。

それぞれ特有のオーラを持つ言葉が集まって、文章全体のオーラが形成されます。

ところが、文章全体を構成している言葉の中に、ひとつだけ、極端にオーラが異なるものが混ざっていたらどうでしょう。たとえば、上品なオーラを持つ言葉のグループの中に、あまりお行儀のよろしくないオーラを持つ言葉が含まれているといった場合です。なんとなく、全体的にバランスの取れていない、違和感のあるライティングになるのではないでしょうか。

たとえば、権威のある新聞などが、「ついに養殖詐欺師逮捕!」という見出しの一部を変えて、「ついに養殖ペテン師逮捕!」となっていたとします。

なるほど、「詐欺師」と「ペテン師」は意味は同じです。また、この見出しが英語から翻訳されたものと仮定して、英語の swindler を辞書で引くと、「詐欺師、ペテン師」などと意味が掲載されているので、何気なく「ペテン師」を使うということも考えられます。

ところが、この2つの言葉はやはり、持っているオーラが違います。これを読んだときに、今どき「ペテン師」という言葉を使うのかと感じる人もいれば、ちょっとコミカルなタッチで書かれた新聞かな?と思う人もいるかもしれません。

また、こういう例もあります。

(…略)あなたのパソコンは正しく機能しない「生ける屍」となってしまいます。

確かに、辞書を引くと「生ける屍」という意味が載っているかもしれません。しかし、これをこのまま使ってしまうと、やはり、違和感が出てくると思います。これが、個人が掲載したカジュアルな記事などであれば、

キミのパソコンはまさに「生ける屍」になってしまうのだ。

といった文章はそれなりに味があるかもしれませんが、きちんと威儀を正して伝えるべき企業のメッセージとして考えると、この表現はカラフルすぎるということになります。類似した意味を持つ、もっとふさわしい表現を試みる必要があるのです。

和英辞典などには、その単語の意味は掲載されていますが、その言葉の持つ品格や雰囲気までは完全に伝えることはできません。だからこそ、辞書はあくまでも意味の参考ととらえ、それぞれの言葉のオーラを正しくつかみ、正しく伝える単語や表現を選んでいくということが大切だと考えています。

オーラが正しく伝わらないということは、ブランドイメージや発信者の気持ちがきちんと伝わらないということに他ならないからです。

言葉のオーラはどこから

さて、言葉のオーラはどうやってできるか、ということです。

たとえば、こういう言葉があります。

「いかさま」

さて、どんなオーラを感じるでしょう?

なんだか、うさん臭そうなイメージを感じると思われます。実際、現代では「まがい物」、「ペテン師」といった意味で使われますので、その意味も手伝って、そういった「オーラ」を感じさせてしまいます。

ところが、ご存知のように、この言葉の本来の意味は「いかにも、そのようなさま」であるということで、古文などでは、相手の言葉に対して「いかさま」(=なるほど)といった相づちのような使われ方をしていたようです。もちろん、その当時では、この言葉には「うさん臭い」オーラはなかったはずですね。

だんだん時代が進むとともに、「いかにもそのように見せて実はまがい物」といった使われ方をするようになったのか、今ではすっかり良くないオーラを持つようになった言葉であると言えます。

ちなみに、「あ、全然大丈夫です」といった「全然~」の使い方も最近変わってきています。少なくとも二十年前は、「全然」という言葉の後には「問題ありません」など、「ありません」という否定形を使うのが常識的な用法でした。

それが、十年前くらいからか、若い世代の人が「全然大丈夫です」などと言うようになり、そのときには、なんだかジョークっぽいコミカルな雰囲気(オーラ)を感じていたのですが、いまでは、その使い方が当たり前になりつつあり、かっての「おかしさ」というオーラもなくなってきました。「それは間違った用法だ」と注意する年配の人もいなくなり、だんだん市民権を得ていきそうな表現です。

言葉は時代とともに変化します。そして、それとともに「オーラ」も変化していきます。
人々がその言葉をどう使うか―それによって、言葉の持つ「オーラ」が形成・変化していくというわけです。

その言葉の持つ「オーラ」とは、語源や本来持っていた意味、それが人々に使われることによってどう変化してきたか、そして、現在どういう使われ方をしているのか―そういう要素がすべて融合した全体的な姿、それが「言葉のオーラ」ではないかと考えています。

言葉のオーラ

仕事を頼もうと思って近づいたら、「忙しい、話しかけるな」というオーラが…

その人が何となくかもし出している雰囲気という意味合いで最近よく使われるようになった言葉がこの「オーラ」。確かに、人にはそれぞれ「オーラ」があり、優しそうな人だなとか、あるいは神経質そうな人といった恒常的なものから、先日は「忙しい」オーラを出していたけど、今日は「ヒマ」オーラだといった変化するオーラもあるようです。

ところで、少しスピリチュアルな話になりますが、言葉にも「オーラ」があると思うのです。
日本古来の考え方に「言霊(ことだま)」というものがあります。言葉には魂が宿っているので、言葉を発するときには注意しなければならないということですが、結婚式などで使ってはいけないとされる忌詞(いみことば)などもここから来ているようです。つまり、言葉を使うということは、その言葉の持つ精霊を呼び起こすことで、言葉の意味するところのものが現実に起こってしまうということを恐れたのです。

なんだかオカルトチックになってしまいますが、言葉というものは不思議だなと思った体験が何度もあります。

たとえば、語学の学習をしていて、ある日ひとつの単語を覚えたとします。次の日、まったく関係のない別の授業などで、先生がその単語の意味について突然、質問してくる―といったようなことです。無数にある単語の中から、たまたまその単語が選ばれるという不思議。やっぱり、言葉には何かいるぞと感じたものです。

そういうことから、言葉を使った表現に携わっている自分としては、言葉に宿っている、その「何か」にうまく働いてもらってこそ、きちんと伝わる表現ができるのではないかという気がしています。逆に言えば、うまく働いてくれない場合に、何が言いたいのかわからない、誤解されてしまった、ということが起こるのかもしれません。

言葉にうまく働いてもらうには、表面的な使い方をしたり、雑な使い方をするのではなく、ひとつひとつを大切にしながら、そこに想いを込めていくということが大事だと思います。また、使う自分自身ができるだけ善良な人間になることで、その場にふさわしい言葉が向こうから寄ってきてくれるのではないかと考えたりもしています(笑)。実際、不正を行っている人の言葉が白々しいのもそういう理由があるのかもしれませんね。

話はそれましたが、そんなところから、言葉のオーラというものは言葉に宿っている「何か」がかもし出している雰囲気なのかもしれないと思っています。

では、その言葉のオーラとは一体どこから来るのか、どうして生成されていくのか―については、次の機会に考えてみたいと思います。

クリエイティブ業界とは(2)

「クリエイティブ業界」ってどんな業界?

と問われると、日々クリエイティブなことを考え、それをデザイン、映像、音楽、文章といった手段で表現する業界という定義がいちおう成り立ちます。

こう言うと、おもしろそうなことを考えて、自分の好きなことばかりやっている楽しそうで華やかな業界だ―などと思われるかもしれませんが、それは違います。

広告、カタログ、パンフレット、ビデオなど、何を創るにしても、「クリエイティビティ」とか「インパクト」などとカッコイイことを言っているだけでは何ひとつ完成しません。カタログの表紙やトップ見開きのデザイン、コピーはできているのに、「仕様や注意書きのページはどうなってるんですか?」、「いやあ、それって、クリエイティブな仕事じゃないし…」というようなところには、当然、仕事は発注できません。

「ものづくり」にはダイナミックで華やかな部分と、細かく地味で目立たない部分があります。言い換えれば、陰(いん)と陽(よう)の部分があるわけで、万物すべてこの二つの相異なる要素がそろってこそ初めて完全な姿になる、物には必ず明と暗の局面があるというわけです。

カラフルなデザインやキャッチフレーズを考えるのが「陽」の部分なら、商品の仕様をまとめたり、文字校正をすることが「陰」の部分とも言えるでしょう。

自分ごとになりますが、新卒で入社した制作会社での初めての仕事が「文字校正」でした。当時は、現在のようにパソコンもない時代ですので、データでテキストをそのまま流し込むということはできません。タイプ打ちされた原稿をもとに、印刷用に文字を打って貼り付ける「写植」というものが使われていました。

「じゃ、校正お願いね」ということで、元の英文原稿と上がってきた写植のコピーを渡されたのですが、ざっと目を通して、「終わりました!」と持っていくと、「修正箇所、どれくらいあった?」と先輩。「いえ、ありませんでした!」と元気に答えると、「ちゃんと見てくれたの?」と怪訝そうな様子。「はあ?」というわけで、先輩がざっと見ると、「ほら、ここも間違ってる、これも誤植でしょう?最初から、絶対にどこか間違っているはずというつもりでチェックしないとダメよ。もう一度やり直し」と付き返されてしまいました。

「毎日がクリエイティブ」という期待とは裏腹に、華やかな部分はほんの少しで、大部分が泥くさい、根を詰める地味な作業という現実。ひとつのものを作り上げるには、ダイナミック vs 緻密、派手 vs 地味といった両局面の視点を持つことが要求されるのです。
とは言え、人には適材適所があるもので、大まかで華やかな部分が得意な人間と、緻密で冷静なことが得意なタイプがいます。

職種によって分けられていることもあり、ひとつのものを制作するにも、いろんな人間が分担しながら共同作業をします。細かいタイプの人間に言わせれば、「この罫線はコンマ○ミリ細くしてください」、「アルファベット表記の前後はすべて半角スペース入れてください」などと言い出し、逆に、大まかな人間は、「そこまで言い出したらキリがない、納期に間に合わないよ」と悲鳴を上げ、「でも、大事なことだと思います!」と切り返す… そこへ、「まあまあ」と中くらいの考え方の人間が入って調整したりするという、なんだか、妙なバランスで成り立っている業界でもあります。