「クリエイティブ翻訳」とかけて、日本のものづくりと解きます。
―その心は?
摺(す)り合わせ型の翻訳ライティングです。
それに対して、部品やモジュールのように、単語や文章単位で置き換えていくのが直訳や表面的な翻訳と言えるでしょう。そこには、組み合わせた単語同士がしっくりと来るか、文章間のつながりはスムーズに流れているか、文書全体の完成度はどうなのか、といった摺り合わせがありません。とは言え、意味的にも何となく通じるかもしれないし、安価に上がるのも事実です。
今は厳しい時代です。
産業分野においても、より安い労働力を求めて、国内の生産拠点の海外シフトが続いています。
そして、こういった厳しい時代には、人々は物質的なゆとりとともに、感性のゆとりも失ってしまいがちです。
電化製品売り場には、日本のブランド名でありながら、いかにも無理やりはめ込んだようなボタンやカバー、見た目にもわかるようなズレや隙間、ボタンを押すとおもちゃのような音がしてドアが開く… といったおよそ「日本のものづくり」とは思えないような製品が並ぶようになりました。用を足せばいい、安ければいいという実用性や功利性が追求され、ものとしての完成度、使い心地といった感性的な部分はもはや「ぜいたくな要素」のようです。
細かくチューニングされた個と全体の調和や使い心地といった要素は、摺り合わせならではの「ものづくり」です。そして、単なる日常的な道具であっても、そういった要素を楽しめるということは感性のゆとりを持っていること。それは、良いものは良いということを認めることかもしれません。
きれいごとを言っていられる時代ではないかもしれません。しかし、市場は、いつまで、こういった味気ない製造物に満足しているのか―というと疑問です。むしろ、現状にあっても、感性の遊びが楽しめないモノに心から満足している人が果たしてどれだけいるのでしょうか。
高額であればいいというのではありません。完成度の高いものづくりのために、当たり前のようにかかるコストは当たり前のように払ってもいいという人もいると思うのです。そのコストは感性のゆとりへの投資です。
保障期間以内に何度も故障し、そのたびに新品と交換してもらうために販売店に足を運ばなければならない。たとえ物理的な時間がたっぷりあったとしても、その時間と手間は、自分のゆとり感をどんどん食いつぶしているものでしかないという気がしています。
逆に、物理的なゆとりがないからこそ失いたくないもの―それが感性のゆとりですね。