スタートレック(宇宙大作戦) (Star Trek)

スタートレックを語るなら、やはり忘れてならないのはこれ、オリジナルシリーズ (Star Trek: The Original Series; ST、TOS または TOS) である。現在ではスーパードラマ TV でデジタル・リマスター版が放映されている。

日本では「宇宙大作戦」という邦題がついており、その昔、午後4時代の再放送でもやっていたらしいが、あいにく筆者の実家はど田舎だ。観られるチャンネル数も少なかったのか記憶にはない。そんなわけで、筆者がスタートレックと遭遇したのは、映画版の Star Trek: The Motion Picture が初めてで、大学時代の友人に連れられて観に行ったのがきっかけだった。

そのときは、隣の席に座っている友人が、「おお!カーク (Kirk)、老けたなあ」とか「マッコイ (McCoy)!スポック (Spock)、久しぶり!」などと感慨に浸っているのを見て、「ヘンなヤツ」などと冷ややかな視線を送ったものだ。また、ステーションに停泊していた新しいエンタープライズ号 (Enterprise) を見てメロメロな表情をするカークを見て「へへ…」などと笑う友人、こっちははっきり言って、何がおかしいのかさっぱりわからない。退屈だしそのうちに眠くなる始末。ところが、ストーリーが展開するにつれてだんだんとノッてきた。筋書きのおもしろさもあったが、なによりコンセプトの深さに惹かれた。これはいける!というわけで、すっかりスタートレックのファンになって映画館を出たのである。

それから数年後、とある会社の国際セクションにいた筆者はなんとか英語のリスニングを鍛えなければという課題を抱えていた。そんなとき、テレビの深夜放送で「宇宙大作戦」をやっているのを発見。もちろん、英語を鍛えるのが目的なので「吹き替え」などで観ていたのでは話にならない。あまり言うと年齢がばれるが、当時はやっと音声多重テレビが出始めたような時代でけっこう値段も高い。そこで、たまたま隣の席に座っていた先輩から音声アダプターなるものを譲ってもらい、テレビ本体の音声を消してアダプターの副音声で観ることにした。そのうち、アダプターからの音声をラジカセで録音し、カセットテープに落としてウォークマンで聞いたりもした。おかげで、すっかりはまってしまい、英語も上達。原書のペーパーバック (paperback books) もよく読んだ。まさに、スタートレックがなければ現在の自分の英語スキルもないと言ってもいいだろう。

なかでもお気に入りはバルカン人 (Vulcan) のスポック。正確には、バルカン人大使の父サーレック (Sarek) と地球人の母アマンダ (Amanda) との間に生まれたハーフだが、本人としてはバルカン人としてのアイデンティティのほうが強い。バルカン人とはロジック (logic) に生きる人種であり、当然スポックもそうである。彼らにとって「感情」というものは無用の長物以外の何物でもない。つまり、理屈が通っていればすべて OK なのである。しかし、その理屈(ロジック)たるや半端なものではすぐに論破されてしまう。水をも通さない完璧なロジックを追求しているのがバルカン人なのだ。

だが、果たして、論理性だけがすべてなのだろうか―。たしかに感情は低次元のものかもしれない。しかし、友情はどうなのか、愛はどうなのか。感情を理屈で説明することは不可能である。それは、言いかえれば、感情は理屈を超えているということではないか。この宇宙とは、理屈で解決できるものばかりではない。ひょっとすると、幻想というのも現実を超えた真の現実なのかもしれない。オリジナルシリーズでは、こういった宇宙観が背景に流れているのを感じる。地球人 (human) とバルカン人の両方の血を受け継ぎ、地球人に囲まれて生きるスポックの悩みもその辺にあるような気がする。

ともあれ、女性に弱いカーク船長、green-blooded, pointed-ear hobgoblin(血みどりとんがり耳野郎)などとスポックをからかう毒舌マッコイ、それを聞いて片方の眉を動かして反応するスポック。この三人組 (a troika) のやりとりは絶妙である。これが楽しめるようになるとあなたも「通」と言うわけだ。

それにしても、当時は日本ではまだマイナーなドラマ。「スタートレックおもしろいねん」などと言うと、「スタート・レック?何それ」(切るところが違う)とか、「スポックっていうバルカン星人が…」と言っても「バルタン星人?」(それはシュワッチだろ)などずいぶん寂しい思いもしたが、なかには、「子供の頃、定期券入れをパチッと開けて、”エンタープライズ号ごっこ”して遊んでました」という話の通じる人もいたが、ごく少数だった。

一方外国人(特に欧米人)となると話は違ってくる。「私もスポックは好きです」と答えるアメリカ人女性、仕事で知り合ったオランダ人も「スタートレックのファンです」と言うと、「あ、あの Beam me up, Scotty (「転送せよ」という意味でキャッチフレーズ化している)だね」とノリも良い。また、そこら辺にあるものを指で触れて「He’s dead, Jim (ジム、彼は死んでいる)」などと言うとウケたりする。かって同じマンションに住んでいたオーストラリア人ともスタートレックの話で盛り上がった。

そして、こんなイギリス人もいた。彼は、仕事の得意先である企業が日本の管理職対象のセミナーの講師として、はるばる現地から招いた戦略コンサルタントだった。その彼が、セミナーの前に筆者にこんな質問をしてきた。

「講演の最後にこういう一説を入れたいのだけどどうだろう?」

その一説とは、他でもないスタートレックの冒頭に流れるカーク船長のナレーションだった。彼いわく、息子がスタートレックにはまっていて、最初はくだらない(イギリス人はアンチ・アメリカの部分がある)と思っていたのが、観てみるとおもしろくて、今ではすっかりファンだ、というのである。残念ながら、日本人では知っている人は少ないので、「たぶん聞いている人はわからないでしょう」と言うしかなかったが、アメリカのポップカルチャー (pop culture) でありながら、まさに、世界の共通語(大げさか?)ともなっているその威力を感じた。

ちなみにこれがそのナレーションである。

https://www.youtube.com/watch?v=hdjL8WXjlGI

また、これは次世代スタートレック (STAR TREK NEXT GENERATION) のピカード (Jean-Luc Picard) 船長による同じナレーションである。聞き比べると微妙な違いがあっておもしろい。なかでも、where no man has gone before (オリジナル)に対して、where no one has gone before (次世代)の違いは、今ではすっかり常識だが、男女差別 (genderism) に対応した表現だと思われる。

時空刑事1973 (Life on Mars)

またしてもお決まりのイントロだが、

もし、あなたが何かのはずみに意識を失い、目覚めたところが30年前だったら…?

しかも、30年前の現在の職場で働いている。そう、現在ではない30年前である。パソコンどころか FAX もない。「これくらいグーグル (Google) で検索 (search) すれば一発なのに…」と思うようなことでも、地道に図書館に行ったりして調べなければならない。書類を作成するにしても、MS ワードも一太郎もないので「あ、間違えた!」となると、消しゴムでゴシゴシやるか、ペンを使っている場合は最初から書き直しなんてことにもなってしまい、現代の便利さに慣れてしまっていると結構キツイ。もちろん、忘れた漢字を変換してくれるソフトもない。とは言え、「今日から入社した○○です」「え、あの○○さん?」など、あのイヤな上司が新入社員で自分の部下になったりする可能性もあり、「たっぷり日頃のお返しを…」ということもできるかもしれない(あまり良い趣味ではないが)。

そんな困った状況になったのが、主人公のサム・タイラー (Sam Tyler) 。大マンチェスター警察 (Greater Manchester Police; GMP) の警部 (Detective Chief Inspector; DCI) である。2006年、交通事故に遭い、目覚めたところが1973年。そして、33年前の大マンチェスター警察で勤務しているという設定である。しかし、彼にとって厄介なのは自分の状態がわからないこと。死んでいるのか、こん睡状態に陥って夢を見ているのか、はたまたタイムスリップ (time slip) してしまったのか。それとも頭がおかしくなってしまったのか…。

これが普通の SF ドラマなら、時間空間のひずみにはまって過去に行ってしまったとか、タイムマシンに乗って飛んできましたなど、自分にも自覚があるのだが、彼の場合はちょっと違う。事故に遭ったところまでは覚えているのだが、それから後はさっぱりわからない。それでも、ふとした瞬間に何かの装置らしき「ピッ、ピッ…」といった音が聞こえたり、近くの電話が鳴るので取ってみたら、自分の名前を呼ぶ母親や医者らしき人間の声が聞こえてきたりする。「あ、動いた!やっぱり彼には聞こえているのよ」「しかし、このままの状態を続けても目覚める可能性はありません」といった会話が展開する。ところが、彼には聞こえるのだが、こちらの声はいくら大声で叫んでも届かない。「もうしばらく様子を見て変化がなければ装置を外しましょう」という向こう側の声。しかし、そんなことをされては、それこそ戻るところがなくなってしまうじゃないか!「待ってくれ!外さないでくれ!」とこちら側で叫ぶ彼。トイレの鏡に向かって、「誰かここから出してくれ~っ!」と叫ぶ彼に、「アイツ、ちょっとおかしいぞ」と同僚の冷ややかな視線。そんな彼を唯一心配そうに見守ってくれるのが婦人警官のアニー (Annie) である。

ということで、見ている側にも、彼に何が起こっているのかさだかではない。こん睡状態なのかもしれないが、それすら、彼の頭のなかで創り上げられた「空想」の世界なのかもしれない。考えれば考えるほど、この点は「宙ぶらりん」 (suspense) の状態なのだが、その心理状態をじらすようにいろんな事件が展開する。そう、舞台は警察、事件が起こるのは当たり前である(ないにこしたことはないが)。しかも33年前だ。捜査のやり方もずいぶん昔かたぎである。21世紀の警察、サムにとっては当然の手順である科学捜査 (CSI = Crime Scene Investigation) なども、もちろん使われない。「でも、証拠が…」「証拠なんて関係あるか!オレが犯人だと思うんだからヤツが犯人なのさ」といったノリである。汚い手口も使うし、汚職もあり。そんな彼らと絶えず対立するサムは、時代をまたいだカルチャーショック (culture shock) にも悩まされる。

「この事件はどうなるのか」と刑事モノ (police procedural) のつもりで観ていると、突然、2006年の映像のフラッシュバック (flashback) が現れ、あの「ピッ、ピッ…」が聞こえ、会話の声がする。苦悩し取り乱すサム。「彼は現在に戻れるのか」とハラハラしていると、「おい、行くぞ」という同僚の声に覚醒されるように捜査現場に戻っていく。まさに、「刑事モノ」と SF (science fiction) という二つのプロットを交互に織り成すハイブリッド型ドラマと言えよう。

原産国イギリス (UK) で2006年からスタート。アメリカ (US)、カナダ (Canada)、オーストラリア (Australia)、ニュージーランド (New Zealand)、アイルランド (Ireland)、フランス (France) などでも放映され、アメリカではリメイク (remake) もされた。日本では、ミステリチャンネルで放映中。

それにしても、サムは戻れるのか、それとも―。

これは、サムのモノローグで構成されるイントロ部分である。

http://www.youtube.com/watch?v=4jHpaEk6uFM&feature=related

REX~ウィーン警察シェパード犬刑事~ (Kommissar Rex)

「賢そうなワンちゃんですね」
「ええ、番犬なんですけどね、これで三代目ですわ」
というのが人間世界の常だが、このウィーン警察シェパード犬の場合はちょっと違う。
「今度の飼い主、強そうじゃないか」
「これで、三代目なんだわん」
なんてことで、主人公は犬のほうである。原題の Kommissar Rex もドイツ語で「刑事レックス(レックスは犬の名前)」、そう、犬自体が「刑事」なのだ。実際に、シリーズを重ねていくうちに飼い主であるパートナーの刑事が何度も変わる。

ともあれ、さすがに刑事犬ともなれば、芸も達者でなければいけない。「お手」や「お座り」ぐらいで満足しているお座敷犬とは訳が違う。ドアの開け閉めなんて朝飯前。盗まれたベートーベン(音楽家)の頭蓋骨を犯人が投げたときも、ジャンプで見事、空中キャッチ。「レックス、向こうの部屋をなにげに見てこい。いいか、なにげにだぞ」と言われると、文字通り、「なにげ」に偵察してくることもできる。朝はパン屋にお遣いに行くし(ちなみに好物はソーセージ・パンだとか)、向こうの通りで張り込んでいる仲間に食料を届けたりもする。(注:以下会話部分のカッコ内は推測)

飼い主刑事:「食料届いたか?」
仲間刑事:「ん?パンが一個しかないぞ」
飼い主刑事:「お前、途中で食べたのか?」
レックス:「?(シカト)」

もちろん、テレビも観る。
ある朝のこと、忙しい様子の飼い主。向こうの部屋からしきりに用事を頼もうと名前を呼んでいるが、こっちだって今は忙しい。ソファに寝そべって、お気に入り(?)のテレビを観ているところ。いちいちわがままなコールに答えていられないのだわん。

飼い主刑事:「おーい、レックス、レックス!」
レックス:(無視―テレビに没頭)
飼い主刑事:「おい!レックスってば!ぞうきん持ってきてよ!」
レックス:(無視)
テレビ画面では二頭のパンダがなにやら人間の言葉でしゃべっている。
レックス:(おもろいやないけ…)
そのうち、たまりかねた飼い主がやってきて、
「忙しいんだから、少しは協力してくれよな」
と、テレビをバチンと消してしまう。

しぶしぶ重い腰を上げ、ぞうきんをくわえてくるレックス。飼い主のそばで「(はいよ!)」と落としてから、また、そそくさとテレビの部屋に戻り、前足でリモコンをつける。
画面はパンダからチンパンジーに替わっている。
レックス:(あ、パンダ終わってら…)

突然電話が鳴る。
飼い主刑事:「おい、レックス、電話取ってくれ」
レックス:(無視)
仕方なく電話に出た飼い主刑事が「おい、事件だ」と言うと、そこはプロ、即座にテレビから離れて、相棒の刑事とともに仕事に出かけるのである。

そんなレックスがある日誘拐された。犯人の要求は、こう留されている仲間の釈放。要求を満たさなければレックスを殺すと言う。ここで、人間中心のドラマに慣れていると、つい、犬を誘拐してもあまり効果がないのではないかとか、かわいそうだけど犠牲になってもらうしか… などという考えが沸いてくるがお門違いである。あくまでも主人公は犬なのだ。犯人からの電話で食い下がる飼い主刑事。
飼い主刑事:「レックスは無事なのか?電話口に出してくれ!」
またしても、電話口に出てもワンとかクーンとしか言えないだろうに… などということは考えてはいけない。レックスが電話に出る。
レックス:クーン、ぺろぺろ…(ご主人…)
飼い主刑事:「おい、レックス、大丈夫か?」
レックスは受話器を噛んだり、舐めたりしながら、なんともけなげな様子である。
飼い主刑事:「しっかりしろ!必ず救けに行くからな」
レックス:クーン、ぺろぺろ…(すんまへん、ふがいないことで)
レックスの唾液でべとべとになっている(であろう)受話器を取り上げて犯人が言う。
犯人:「犬の命が惜しければ言うとおりにするんだな」

というわけで、窮地に立たされた飼い主刑事。結局、犯人の要求を呑んで仲間の犯人を釈放してしまう。仲間の刑事も「俺たちも一心同体だ。クビになったら、みんなで新しい職を探そうぜ」なんてことでレックス救出に加担する。ウィーンの警察はみんな良い人ばかりなのかもしれない。

結局、レックスも救出、犯人も再び逮捕というハッピーエンドに終わり、なんとも都合の良いストーリーなのだが、それでいいのである。人間中心の見方をしてはいけない。そう、犬が可愛い、それでいいのである。
下記はドラマのイントロ部分。

http://www.youtube.com/watch?v=lhpaT2EZv04

スタートレック・ディープ・スペース・ナイン (Star Trek: Deep Space Nine)

さて、このディープ・スペース・ナイン (DS9と略す) とは宇宙ステーションの名前である。他のスタートレックシリーズとは異なり、この宇宙ステーションが舞台なのだ。このステーションは、ベイジョー (Bajor) という星にある。ベイジョー人 (Bajorans) が宿敵カダシア人 (Cardassian) の長年にわたる残虐な支配から独立を勝ち取ったといういきさつがあり、このたびベイジョー政府からの依頼で、惑星連邦 (The United Federation of Planets) と共同統括することになったのである。

ちなみに、このステーションの名前は「新スタ」でもちょくちょく登場。DS9 の登場人物がエンタープライズ号 (Enterprise) にやってきたこともある。しかも、エンタープライズ号から DS9 に転属になったのがマイルズ・オブライアン (Miles O’Brien) で、彼の妻は日本人で名前はケイコ。ケイコのおばあちゃんが住んでいたのは「カマモト(たぶん熊本がなまったものか?)」らしい。そして、ステーションの責任者となるのがベンジャミン・シスコ司令官 (Commander Benjamin Sisko) 、亡くなった妻との間に一人息子のジェイク (Jake) がいる。このシスコ司令官だが、実は、「新スタ」のピカード (Jean-Luc Picard) 艦長がロキュータス (Locutus) になって(正確には改造されて)ひと暴れしていたころ、勤務していた宇宙船が攻撃され、妻を失うという悲しい過去を持っている。そのせいもあって、ピカードとは折り合いが悪いのだが、最初のエピソードでは、その悲しい過去と向き合い、立ち直る様子を描いている。

ところで、このステーションの特徴のひとつは、近くにあるワームホール (wormhole) だ。最初のエピソードで発見されるのだが、このワームホールを通ると、なんと、7万光年先のガンマ・クアドラント (Gamma Quadrant) まであっという間に行けてしまうというのだからすごい。昔、とある「ユーフォー (UFO) 研究会」のおじさんに、夜中にユー・フォーに連れられて北斗七星まで行って来た人がいるという話を聞いたことがあるが、たぶん、それよりもすごいかもしれない。ともあれ、現代のような忙しい世の中になってきたのに、宇宙の果てまでとは言わないが、「大阪から東京までこのミニワームであっという間ですわ」というくらいの技術の発展は欲しいものだ。でなければ、厳しい世の中、キツイ思いをするのは現場の人間だけである。

話はそれたが、ワームホールのすぐそばにある宇宙ステーション、旅の中継地ともあって、これまで知られていなかったガンマ区域も含め、いろんなところからいろんな宇宙人がやってくる。まず、ベイジョー人は鼻にシワがあり、耳に信仰のシンボルであるピアスをしている。カダシアンは、顔にも畝のようなシワがありなんとなく爬虫類っぽい。その他、頭が象の鼻のように伸びた人種や鼻と口がつながったようなヤカラまでさまざまだ。DS9 のレギュラーメンバーでは地球人をはじめ、ベイジョー人のキラ・ナリース (Kira Nerys)、DS9 でブティックを経営するカダシア人のガラック (Garak)。また、同じく DS9 でバーを経営しているクァーク (Quark) はファレンギ人 (Ferengi) で、「新スタ」ではもっぱら「儲けしか頭にない卑しい人種」というネガティブなイメージが強かったが、DS9 では意外とカワイイ面も見せる。また、ジャジア・ダックス (Jadzia Dax) は体内にシンビオント (symbiont) と呼ばれる共生生物を住まわせているトリル人 (Trill) 。そして、さまざまな形に姿を変えられるチェンジリン (Changeling) であるオド (Odo) もいる。

さすがに、宇宙人と言っても、人間に形が似たヒューマノイド (Humanoid) が中心であるが、それでも地球人としての我々の常識を超えた生態系や文化がおもしろい。これまでの豪華な宇宙船を取り巻く壮大さには欠けるが、多様性という意味では他のシリーズを大きくしのいでいる点がこのシリーズの最大の魅力である。異文化交流などと言われて久しいが、地球人同士でチマチマやっているスケールでないことは確かだ。「こんなヤツとどうして付き合っていくのか?」―というのは人間関係における永遠のテーマであるが、「うちの上司もこの○○人に比べたらマシだ」といった前向きな態度を培うためのヒントになるかもしれない。
下記は、DS9 の1シーン。ファレンギ人のクァークとチェンジリンのオドが、皮肉のこもった絶妙のやりとりを展開。

https://www.youtube.com/watch?v=bx2CatQxfb8&feature=related

イタリア語のお勉強

久々の更新である。どちらかというと、熱しやすく冷めやすい性格でもあるので、もうこのブログも終わりかな(おいおい)などと自問することもあったが、海外ドラマは好きだし、そんなことはない。ただし、自分でも気まぐれだとは思う。
というわけで、10年くらい前にちょっとかじったイタリア語をやってみたくなった。自分でも自覚しているが、けっこう単純なほうで、フランス語を聞けば、「あー、フランス語は、あのシャバドバダという音がいいよなー」と思うし、イタリア語を聞けば「やっぱ、イタリア語やで!」(関西弁だが)などと思ってしまう。てなわけで、もっか、イタリア語を再び勉強し始めてかれこれ数ヶ月。そんなこともあって、ますますブログの更新がおろそかになっているとも言えよう。
学生時代、自分はスペイン語が専攻だったが、外国語大学ということもあって、ときどきイタリア語を耳にすることもあった。そのリズムたるや、「イタリアーノ、スパゲッーティ、ボンゴーレ!」(実際の会話ではない)なんていうノリで、まるでカンツォーネを聞いているかのような感覚を覚えた。やっぱり、イタリア語は音楽なんだ―と痛感したものだ。
さて、イタリアと言えば、ファッション、クルマ関係ではアルファ・ロメオ (Alfa Romeo) とかフェラーリ (Ferrari) なんてのもあり、ちなみに、筆者の配偶者のクルマもアルファ・ロメオである。まさに、ドマーニ・ドマーニ(domani, domani:明日があるさ)の国イタリア、だいたいクルマも「遊び心」で造られている。だから、日本車に慣れていると、「登り坂で止まると、一瞬動けない」など、いろんなところで、「これってどうよ!」と思ってしまうこともある。配偶者いわく、「これがいいんよね」ということらしいが、国際ジョークにも、第二次大戦後、三国同盟(ドイツ、イタリア、日本)でともに戦ったドイツと日本が再会し、「今度はイタ公抜きでやろうぜ」というのがある。
こういうと、イタリア人ってほんと、陽気でお気楽なんだな、と思ってしまうが、確かに、筆者の知っているイタリア人を見てもそういうところもある。しかし、その反面、子供のころ観た昔のイタリア映画に「自転車泥棒」 (Ladri di biciclette) というのがある。モノクロ映画で、ネオ・リアリズモ (neorealismo) の代表作品のひとつ、監督はヴィットリオ・デ・シーカ (Vittorio De Sica) であるが、子供心に痛く悲しい思いをした映画である。一言でいえば、「まるで、救いがない!」ということである。そして、考えた、自分のお父ちゃんがあの「自転車泥棒」だったらどうだろう?あまりにも悲しすぎる、残酷すぎるのである。スペインやブラジルなどもそうだが、いわゆる「ぱやぱや」感覚の陽気なラテン民族、その奥底には、実は、深い悲しみや苦悩があるような気がする。
ということで、前置きが長くなってしまったが、イタリア語の勉強である。イタリア語もスペイン語やフランス語、ポルトガル語などと同様、ラテン語から分派した言語である。ラテン語はいまでもバチカンなどでも使われているが、イタリア語は、名詞の複数形などでラテン語の名残りを多く残していると言える。英語の a dog の複数形が dogs というように、単数名詞に単純に「s」をつけるだけで複数形にすることができる(もちろん children などの例外もあるが)という特徴は、スペイン語やフランス語も同じである。ところが、イタリア語だけは違うのである。それも、男性名詞と女性名詞では語尾が異なる。例をあげると、男性名詞である「本」libro の複数形は libri、女性名詞である「鉛筆」matita の複数形なら matite となる。しかも、不定冠詞(英語の a, an) や定冠詞 (英語のthe) も付けなければならないし、しかも、その単語が母音(あ行の音)で始まるかどうかで形が違うのであるから、もう、非常にややこしい。「もう、やめてくれ~!」と悲鳴をあげたくもなり、ましてや、筆者の勉強する時間帯は真夜中である。アルコールでも引っ掛けながら「気楽に」やろうと思っていると、アルコールで朦朧(もうろう)となった頭ではけっこうキツイ。それでも、相手はラテンの国である。コミュニケーションする場合にアルコールはつきものだ、慣れておく意味でも(言い訳)、一杯やりながらというのも訓練にはなる。
で、こんなとき、勉強に疲れたら観るのがこれ。もちろん、イタリア語の勉強だからイタリア語である。とは言え、疲れているので、あまりまじめなモノもダメである。
http://www.youtube.com/watch?v=EjfPhb33VMs&feature=channel
題して、「10分間のイタリア語」、講師はマルチェロ・マストラントニオーニ(Marcello Mastrantonioni) (たぶん、かの大俳優、マルチェロ・マストロヤンニ:Marcello Mastroianni のパロディーか?)という自称「甘い生活」 (la Dolce Vita) を送る(?)ファッション・フォトグラファー (fashion photographer)。なかでも、上記urlは、「いかにしてきれいなおねーさんと make love するか」というレッスンである。イタリアならではの(?)このバカバカしさが筆者にはけっこうウケている。
英語の字幕もついているが、いちおう内容を簡単に説明しておくと、
「キミがボクのようにカッコイイ男じゃなくても、大丈夫、ボクの言うとおりにすれば、きっと彼女をモノにできる」という前置きから始まり、まず、きれいなおねえさんと会う約束ができたら、クルマで迎えに行く。もちろん、クルマはフェラーリ(あるいは同等のセクシーなクルマ)。自分で持ってなけりゃ、レンタカーでもいい。そして、約束の時間から3分遅れで行くこと。この3分がミソ。マニキュアや香水も忘れずに。特に足は大事(なんでもマルチェロ・マストラントニオーニ ブランドの香水もあるとか)。花束も忘れずに。花はバラ。でも、白 (bianca) はダメ、絶対に赤のバラ (rose rosse) じゃないといけない。そして、迎えに行ったらまず簡単なキス(でも、フレンチキスはまだだよ)、それから、行き先は告げずに、そのまままっすぐ空港へ向かう。そしてローマ行きの便に乗る、もちろんファーストクラスだ」なんてことで、それからどうするんだ?と思って聞いていると、そのフライトの中で事に及ぶのだとか。「そう、いたってシンプル。まわりの客が苦情を言ってきたら、とっとと寝な!」というふうに言い返そう。そして、「無事、事を済ませてローマに到着。ローマに着いたら、すぐに引き返そう。だって、24時間以内に返さないとレンタカーの料金もバカにならないしね」といった流れである。
やはり、なんといっても、イタリアである。

新スタートレック (STAR TREK NEXT GENERATION)(4)

ボーグ (Borg) もけっこう可愛いヤツ(?)

以前にも紹介したボーグが再び登場。ロキュータス (Locutus) という名前のボーグに改造された経験を持つピカード (Jean-Luc Picard) 艦長、「ボーグ」という言葉を聞くだけで、あのときの恐怖と屈辱がよみがえってくる。まさに、脳裏に深く刻み込まれたトラウマ (trauma) だ。そんなある日のこと、探検先のとある月 (moon) で、こともあろうに、乗組員の一行が見つけたのが…。

乗組員:「艦長、怪我をした (injured) ボーグです」
艦長:「なに?すぐにその場を離れて戻って来るんだ!」
医者:「でも、怪我をしてるのに放っておけないでしょ?」

てなことで、放っておいたらいいのにと思わないではないが、傷ついた一人のボーグを連れてエンタープライズ (Enterprise) に戻ってくる。集団から一人だけ切り離されている状態なので、現在のところ、害を加えるような心配もないというわけだ。親切に傷の手当をしてやった後で、医者が「きっと、お腹が空いているに違いないわ」などと言って食料を与えることになった。と言っても、もちろん、スープやパンではない。ハンバーガーやステーキでもない。エネルギーである。意識を取り戻したボーグは、コンセントのようになった片腕をソケットのようなところに差し込み「食事」をする。「あ~うめえ!ごっつぁんです!」なんてことももちろん言わない。

「我々はボーグだ (We are the Borg.)」
「お前たちを同化する (You will be assimilated.)」
「抵抗は無意味である (Resistance is futile.)」

と、いつもの口上である。この期におよんでもこれしか言えないのがなんともワンパターン。しかも、助けてもらったお礼が「同化」かと思ってしまうが、ボーグになってしまうと、「同化する」こと自体悪いことだとかといった発想はない。

ともあれ、せっかくの機会だから、これを利用してボーグについて調査してみようということになった。チーフエンジニアと医者がチームになって、いろんな検査を始めるのだが、そのうち、お互いに間になんとも言えない「情」のようなものが通うようになってくる。チーフエンジニアが「オレはジョーディ (Geordi)」、医者が「私はベヴァリー (Beverly)、あなたは?」と名前を聞くと、「我々はボーグだ」。「だから、"我々"じゃなくて、ここにいる個体は何ていうんだ?」と言うと、ようやく、「5の3番目だ」という答え。しかし、そんな名前じゃ味も素っ気もない。

ジョーディ:「よし、これからお前のことをヒュー (Hugh) と呼ぼう。オレはジョーディ、お前はヒュー」
ボーグ:「我々はヒューだ」
ジョーディ:「いや、だから、"我々"じゃなくて、"オレ"はヒューだろ?」
ボーグ:「我々… オレ?○×△*#$???」
そうである。集団としてしか機能しないボーグにとって、「我々」 (We) という概念はあっても「私」 (I) という概念はないのだ。
ヒュー:「なんでこんなにいろいろ検査をするの?」
ジョーディ:「他の種 (species) について知りたいからさ」
ヒュー:「だったら、やっぱり同化がいちばんだ。そうすれば、いろんな種のことがすべて一瞬にして理解できるよ」
ジョーディ:「だからさ、オレは同化されたくないんだってば。同化されるくらいなら死んだほうがマシだよ」
ヒュー:「○×△*#$???」

なんてことで、ひたすら「しかと」を決め込んでいたピカード艦長も、ある状況から、このボーグを実際に自分の目で見て判断しなければならない事態に追い込まれる。清水の舞台から飛び降りる覚悟で面会する決心をした。ピカードの待機する場所にボーグ(ヒュー)が現れる。

ヒュー:「あ、ロキュータス!何してるの?こんなとこで」(こんなに軽いノリではないが)
あの忌まわしい名前で呼ばれたピカード、ここは、ひとつテストしてやろうということなのか、
ピカード:「この宇宙船を同化するためだ。お前も手伝うのだ。」
ヒュー:「でも、ジョーディは同化されたくないって言うんだ」
ピカード:「何を言っている、抵抗は無意味だ」
ヒュー:「いや、抵抗は無意味じゃないみたい」
ピカード:「お前はボーグだ」
ヒュー:「いや、違う。"ボク"はヒューだもん」

なんということだ?複数形の「我々」ではなく、単数形一人称を使っているではないか。集団を離れ、ついに「自己」認識の芽生えをみたボーグ。驚くピカード。とくにジョーディとの間には友情のような感情も育ちつつあった。

しかし、彼はやはり、ボーグ。どう逃げても隠れても集団ボーグが迎えにやってくるに違いない。結局、彼は、エンタープライズ号に被害が及ぶことを恐れ、自ら集団ボーグに戻ることを決意した。エンタープライズの乗組員たちに発見された月で迎えを待つヒュー。

仲間が迎えにやってきた。迎えに来た仲間によって瞬時に集団体に再編され、個としての記憶を抹消された彼は、以前の機械的で無機質なボーグに戻り、巣へと戻っていくのであった。
まるで、何ごともなかったかのように。そして、陰で見守る友人ジョーディには目もくれず…。

というわけで、なんだか「かぐや姫」のようなボーグの話であったが、下記はこのエピソードの1シーン。

https://jp.youtube.com/watch?v=OrJYwOhv9sg

4400-フォーティ・フォー・ハンドレッド (The 4400: the forty-four hundred)

もし、いま、このブログを読んでいるあなたのところへ、突然まばゆい光のようなものが現れる。そして、「あれっ?」と思った次の瞬間、あなたはまったく知らない時代と場所にいたとしたら…?

両親もとうに亡くなっていない。知っている人もいない。住んでいた場所もない。すっかり変貌をとげた街並み。見たこともないような機械や技術。

どうも自分のいるのは未来らしい。

そういえば、あれはかって同級生だった友人。もうすっかりいいおじいさんになっているのに、自分はまったく年を取っていない。しかし、確実に、いつの間にか時間が経過している未来の世界。

自分はいったい何なのか、何が起こったのか?この何十年間、何をしていたのか、どこにいたのか?

すべてが謎。

エイリアン (alien) による誘拐 (abduction) なのか、たちの悪いマジックなのか、それとも夢を見ているのか。

こんな、浦島太郎のような不思議な出来事に遭遇してしまったのが、この4400人の人々だ。しかも、すべて同じ時代から来たのではない。あの人は50年前、この人は3年前、というふうに、それまでに生きていた時代もバラバラだ。

しかも、知らないうちに、不思議な超能力が備わっている。

ある者には未来を予知できる能力が、ある者は「怒り」を感じるだけで建物を破壊したり、人を殺めることができる。治癒能力を持つようになった者もいる。身に覚えもないのに、いつの間にか、お腹の中に赤ちゃんがいる女性もいる。

誰の仕業なのか、何のための超能力なのか。自分は、これから、どう生きたらいいのか…。

一切が不明である。

そして、その一切の謎を解くカギとは…?

アラーム・フォー・コブラ 11 (Alarm für Cobra 11 – Die Autobahnpolizei)

BMW かポルシェか―今日も、しっかり壊します。

ドイツの高速道路警察 (Autobahnpolizei) のドラマである。

筆者はドイツ語は全然ダメで、カタコトで「ダンケ」(Danke = Thank you)とか「オフィダゼン」(auf Wiedersehen = Good bye)、実際には使ったことはないが「イッヒ・リーベ・ディッヒ」(Ich Liebe Dich = I love you)くらいしか言えないので、字幕がなければさっぱりわからない。

さて、ストーリーは、スタスキー&ハッチ (Starsky & Hutch) のような二人組みの刑事が犯人を追って大活躍する高速道路警察版―というと、まあ、それも近いかもしれないが、何といってもこのドラマの見どころはカー・アクション (car action)。と言っても、犯人を追うカー・チェイス (car chase) だけでなく、クルマ自体が命がけの演技、つまりクラッシュ (car crash) して廃車になってしまうというわけである。
よって、このドラマの主役は二人組みの刑事というよりは、クルマかもしれない。

二人が懸命の捜査によって、犯人を追い詰め、やっと逮捕か!犯人に手錠をかけ、おもむろにパトカーに乗せて一件落着、やれやれ―といった普通の展開が許されないのがこのドラマだ。観ている者からすれば、「あ、そこで逃がすか」「ぐずぐずしないで逮捕したらいいのに」などというツッコミを入れたくなるのだが、そう、このドラマはアウトバーン(高速:Autobahn) モノだということを忘れてはいけない。二人組みには決して犯人を捕らえることはできない。してはいけないのだ、高速に乗るまでは…。

そしてお待ちかねの「高速びゅんびゅん」シーンが始まる。行け行け、それ!そこだ、ほれ!あれ!などと言っているうちに、空中に舞い上がるクルマ、爆音とともに炎上するトラック… おおっ!うわ~っ!と思わず叫び声がもれる。

派手なスピンや炎上で壊れてしまうクルマにとってはかわいそうだが、「今日はゴルフ (Golf) がクラッシュか?」、「お、あのポルシェ (Porsche) も危ないぞ」、「やっぱり、型式の古いヤツから壊すか…」など、クルマ好きにはいろんな楽しみ方ができそうだ。

ちなみに、シーズン6までで、壊されたクルマの内訳は

乗用車 532 台(一話平均 5.78 台)
トラック 51 台(一話平均 0.55 台)
バス 5 台(一話平均 0.05 台)
バイク 12 台(一話平均 0.13 台)

ということである。シーズン12まで続いているので、犠牲車はまだまだ増えそうである。

Yes We Can! ついにオバマ氏アメリカ第44代大統領に選出

シカゴ (Chicago) のグラントパーク (Grant Park)。
さまざまな人種や年齢の人々が、広大な敷地をモザイクのように埋め尽くす。
熱い歓喜のどよめき。
うねる星条旗の波。
2008年11月5日(現地4日)、初のアフリカ系アメリカ人大統領が誕生した。
"If there is anyone out there who still doubts that America is a place where all things are possible; who still wonders if the dream of our founders is alive in our time; who still questions the power of our democracy, tonight is your answer."
(アメリカとはすべての可能性が実現する国である。そんなことはないと疑っている人はいますか?偉大なるアメリカの建国者たちの夢は今でも生きている。ほんとにそうだろうかと思っている人はいますか?民主主義の力を信じられない人がいますか?もし、そんな人がいれば、今夜がそれを証明する答えです。)
オバマ大統領のスピーチが始まるとみな一斉に耳を傾ける。
涙と希望に目を輝かせて。
ある者は陶酔するように、ある者は"Yes, yes"と強くうなずきながら。
また、ある者は感動の涙に顔をくしゃくしゃにしながら、
ある者は誇らしげな笑顔をほころばせながら…。
日本では、たぶん見られない光景である。
起こらない出来事である。
今までも、そして、これからも。
Tonight is your answer.
The victory belongs to you.
それぞれの言葉の持つパワーを効果的に動員・調和させながら、最大限の言葉のエネルギーを作り出すオバマ・スピーチ。
ただでさえ、感動に揺さぶられている人々の心をさらにゆり動かす。
これでもか、これでもかと。
まさに、英語は「雄弁」のための言語だ。
そして、たぶん、日本語ではできない表現である。
語れない内容である。
日本人はあまりにも寡黙すぎる。
あまりにもシャイすぎる。
言語表現が平坦すぎる。
なぜなら、日本語は「寡黙」のための言語だから。
以下は、オバマ大統領のスピーチの全文です。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/11/05/AR2008110500013.html

ビクトリア (Victoria)

スーパードラマ TV で放映していた「ビクトリア~愛と復讐の嵐 (Olvidarte Jamas)」が終了してから、はや2ヶ月ほど経ち、せっかく蘇りかけていたスペイン語もまた元に戻りそうである。これではいかんということで、以前見つけておいた Youtube 投稿のテレノベラ (telenovela) をチェックすることにした。

その名もずばり、「ビクトリア (Victoria)」である。

と言っても、もちろん前述の「ビクトリア~愛と復讐の嵐」のビクトリアとは別のドラマ。日本には紹介されていないので邦題はない。以前に紹介した「不細工ベティ」(Yo soy Betty, la fea) の邦題「愛と裏切りの秘書室」、「ビクトリア~愛と復讐の嵐」にならって「愛と○○の××」というノリで無理やりつけるとすれば、ややコミカルな響きだが「愛とよろめきの迷路」とでもしておこう。

主人公のビクトリア・サンティステバン・デ・メンドーサ (Victoria Santistevan de Mendoza) は50歳をむかえた熟年女性。会社を経営する夫エンリケ・メンドーサ (Enrique Mendoza) との間に三人の子供たちがいる。愛する家族や約40年来の二人の親友エレナ (Elena) とカミラ (Camila) に囲まれ、何不自由ない平穏な人生。そんな幸せな生活がこれからもずっと続くはずだった。

ところが人生とは皮肉なもの。夫との25周年の結婚記念日の日、夫に20歳も年下の愛人がいることが発覚する。ここからビクトリアの苦悩が始まる。結局、夫は家を出て愛人のもとへ走り、子供たちにもいろんな問題が起こっていく。

これが日本の現代の感覚なら、「そりゃ、エンリケさん、あなたが悪い、身勝手すぎます」ということになるが、そこは男尊女卑の考え方が残るラテンアメリカ(時代はもちろん現代である)。妻が至らないから夫が他の女性のもとに行くのだ―という理屈なのだ。彼女の実の母がまたうるさい。日本で言えば昭和一ケタをも通り越して明治時代の感覚で生きている骨董品のような老女である。娘の苦しみなどわかろうともしない。
そして、子供たちのいろんな問題。末娘のマリアナ (Mariana) は学校をサボったり、麻薬に手を出すようになるが、母親のビクトリアには心を開こうとしない。とにかく、生意気でずる賢い「魔女」のような娘である。また、上の娘のパウラ (Paula) は未婚ながら妊娠。急きょ結婚することになるが、「できちゃった結婚」改め「授かり婚」で、「ダブルのお目でた」などと言ってもらえる日本とは違う。またぞろ、実の母や夫が出てきて「お前(ビクトリア)がしっかりしていないから云々… こんなふしだらな…」などとのたまう。実の母はともかく、エンリケ、あんたは言えた義理じゃないだろう!と思ってしまうが、やはり、そこは「男はOK、女はダメ」のお国柄である。

そんなところへ登場するのが、ビクトリアを「理想の女性」だと崇拝する若い男性ヘロニモ・アコスタ (Jerónimo Acosta) である。毎日のように電話をかけてきては、片思いの胸のうちを訴える。
観ている者としては、「あ、ちょうどよかったやん」なんてことになるが、話はそんなに簡単には展開しない。筆者の友人にも20歳年下の男性に求愛され、結婚した女性がいるが、これまた日本とは異なり、「男はOK、女はダメ」の文化である。そうこうしているうちに、自分の息子サンチアゴ (Santiago) が、え… 友だちのカミラと…? なんてことで、迷いと苦悩が交錯する。

ともあれ、日本で言えば、よく昭和30年代のお母さんたちが観ていたライオン提供(?)奥さま劇場―俗称「よろめきドラマ」になんとなく似ていなくもない(観ていたわけではないが)。夫はよろめき、子供も友人もよろめき、そして、彼女もついにヘロニモ・アコスタと…? 昭和30年代のお母さんじゃないが、ちょっとだけ楽しみである。

https://www.youtube.com/watch?v=TMUiwlbJpKE&index=2&list=PLDDFD1544F41BD850&t=0s